連載「越境スピリット~世界で輝く日本人」では、海外で活躍する日本人のキャリアや活動を深堀しながら、日本がグローバルで活躍するヒントを探る。今回お話を伺ったのは、欧州の小国ルクセンブルクで日本文化を発信する和文化アート講師のIri(イリ)さん。「挑戦を諦めず、自分の軸を作れば『新しい扉』は開ける」と語る彼女は、書道と水引を通じて世界に「日本文化の入り口」をつくる活動を続けている。現地での活動と思いに迫った。(文=JapanStep編集部)

和文化アート講師 / 書道師範 / 水引デザイナー
Iri(イリ)さん
報道現場で約10年の素材収録・配信を担当後、香港大学 日本研究学科でリサーチアシスタントとして「香港に日本の価値を浸透させた先駆者たちのオーラルヒストリー」プロジェクトに参画。帰国後、アーティフィシャルフラワーのECブランドを立ち上げ、ブライダルブーケ制作やメディア提供を行う。2022年にルクセンブルクへ移住し、書道講師として活動。2024年は在ルクセンブルク日本国大使館でワークショップを担当。2025年、長野・飯田で水引を学び、自宅アトリエの定期ワークショップを開始。現在は書道・水引の体験設計とデザイン、日英バイリンガル絵本のイラストも手がける。
Iriさんのキャリアは、報道現場から始まった。大手テレビ局で素材収録・配信業務に従事し、日々大量の情報と向き合っていた。現場は常に緊張感が漂い、一つの判断が放送の品質に直結する。自身の役割がニュースの背後にあるという責任は、確かな成長実感へとつながった。
その一方で、Iriさんは「10年で区切りをつける」と入社時に決めていたという。理由は明確だった。組織に長くいるほど役割が固定化され、新しい選択肢を取りにくくなる。
「脱サラした父も勤めた会社を10年で退社し、新しい事業を始めたことも影響しているのかもしれません。キャリアの節目を自分でつくりたい、そんな強い気持ちがありました」(Iriさん)。強い意思がIriさんを次の挑戦へと向かわせた。
次に選んだのは、香港大学での研究プロジェクト。大学の教授のアシスタントとして、現地で多忙な日々を送った。テーマは「日本の商品とサービスのローカライズ」。経営者へのインタビュー同行、資料管理、学生のチューターなどを務めた。ここで、Iriさんは「日本文化が海外でどのように受け止められ、根づいていくのか」に触れる。
だが、海外で働く中で現実を突きつけられる。日本で積み上げた経験や評価は、現地ではほぼゼロベースで扱われる。言語の壁もあり、社会的文脈も共有できない。
「透明人間じゃないですけど、自分の存在価値を考え、悩むことが多かったです。いわばアイデンティティ・クライシスに陥っていたように感じます。海外でキャリアを再定義する難しさも感じました。何かしら自分の『軸』を作る必要性も感じましたね」(Iriさん)
日本に戻ってから、Iriさんはアーティフィシャルフラワーを扱うフローリストへ転身し、ECブランドを立ち上げた。
Iriさんが手掛けた作品(写真提供=Iriさん)
「香港で初めてアーティフィシャルフラワーを見て驚きました。ハイブランドの店舗に美しく飾られていたり、街中に造花が溢れていたりする光景に魅了されました。非言語でも感動を与えられると感じた面もあったように思います」(Iriさん)
Iriさんの手掛ける作品はドラマや雑誌に採用されるまでに成長する。さらに、制作過程で祝儀袋や贈答品の包み紙・表紙、正月飾りなどで使われる日本の伝統的な飾り紐「水引(みずひき)」の魅力に引き付けられ、活動の幅を広げた。

Iriさんが水引をレクチャーする様子(写真左)とワークショップ参加者の作品(写真右)(写真提供=Iriさん)
さらに、幼少期から続け、師範を取得していた書道が再びIriさんの中で存在感を増す。水引と書道。どちらも「日本らしさ」を象徴する表現手法である。「水引や書道という軸で日本文化を発信していけるかもしれない」。挫折を経て見えたものは、海外に出たからこそ再発見できた「日本文化」という自身のコアであった。
Iriさんが移住先として選んだのは、ヨーロッパの中心に位置するルクセンブルクだ。人口は約70万人。国土は神奈川県ほどの規模でありながら、170以上の国籍の人々が暮らしている。通りを歩けば、耳に届く言語が次々と変わる。カフェで隣り合わせたテーブルから、フランス語やドイツ語、イタリア語、英語が自然に飛び交う光景は日常である。外国人の割合が多い国だからこそ、他者の文化に対する開かれた姿勢が根づいている。


ルクセンブルクの雰囲気(写真提供=Iriさん)
事前の視察もかねてこの国を訪れたとき、10年以上ルクセンブルクに在住している方にアポをとり、話を伺った。そこでIriさんは「ここは文化の交差点であり、発信基地になる」と確信したという。異なる文化が出会うことで、新しい価値が生まれる。日本での経験や肩書、評価は保証にならなかったが、ゼロから挑戦する人に対して、ルクセンブルクは驚くほど寛容だったという。
書道ワークショップを始めると、Iriさんの予感はすぐに現実となる。開催するたびに参加者が集まり、その顔ぶれは実に多彩だった。ルクセンブルク人にとどまらず、フランス、ドイツ、ベルギーをはじめ、多国籍の人々が集まる。「書」に触れるのが初めての方も多く、墨の香りや筆先の動きに静かに集中していく。デジタル機器に囲まれた生活の中で、「自分と向き合う時間」がここにはあると語る参加者は多い。在ルクセンブルク日本国大使館主催のワークショップでは、ある参加者は「マッサージを受けたように、心が軽くなる」と感想を述べたという。

レーミッシュ市主催書道ワークショップ(写真上)と在ルクセンブルク日本国大使館主催のワークショップの」一コマ(写真下)(写真提供=Iriさん)
しかし、Iriさんが感じたもう一つの現実がある。