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2025.12.18

「日本人らしさ」は世界で戦う最強の資質だ~【連載】越境スピリット~世界で輝く日本人

海外で挑戦を続ける日本人に直接話を聞き、キャリアや価値観を深掘りしながら、世界で活躍するための実践知を探る本連載。今回登場するのは、人口の9割が外国人という都市ドバイを拠点に活動するツアーガイド/フォトグラファー 原田 篤さんだ。「世界は自分が思うよりずっと開いている」。そう語る原田さんの歩みには、未知の環境に飛び込み、越境者として生きるための具体的な示唆が詰まっている。日本、オランダ、ドバイ──三つの土地を越境しながら培われた視点を通じて、日本人がグローバルで戦うための本質に迫る。(文=JapanStep編集部)

ツアーガイド/フォトグラファー
原田 篤さん

結婚式のエンドロール撮影からキャリアをスタート。2013年にオランダ・ハーレム及びアムステルダムを拠点に、アーティストやミュージシャンの撮影に携わりながら、クラブシーンやスタジオ、プレハブ街といった個性的な空間を撮影。これまで、公益財団や企業、日本のメディア、オランダの新聞などへ写真を提供。日本のロックバンド「Guitar Wolf」のツアーフォトグラファーとしても幅広く活動。現在は、アラブ首長国連邦 ドバイに拠点を移し、都市と文化の変容、人々の営みと風景の記録に取り組む。約2年間、日本人向けのドバイツアーガイドとしても活躍。

安定を捨てた28歳。英語偏差値40から欧州へ踏み出すまで

アラブ首長国連邦・ドバイ。世界190カ国から人が集まり、街全体の9割が外国籍で構成される多国籍都市である。この超高速で変貌する都市で、ツアーガイドとして旅人を導き、フォトグラファーとして街のダイナミズムを撮り続ける日本人がいる。原田 篤さんだ。現在はドバイの都市文化と人々の営みを記録する表現者として前線に立つが、その軌跡は決して平坦ではなかった。むしろ、挫折と選択の積み重ねが生んだ「越境の物語」である。

原田さんが世界の広さを初めて実感したのは大学時代。当時の英語偏差値は40ほど。世界で働く未来など考えたこともなかったが、「現状を変えたい」という焦りだけを胸に、1ヶ月のフィリピン留学へ飛び込んだ。そこで出会ったのは、厳しい生活のなかでも他者に温かく接する人々だった。「わずか1ヶ月のフィリピン生活で、こんなにも知らない世界があるのだなと知った。世界は広いし、面白い」。この経験が、大きな越境の原点となった。その後、再びフィリピンへ留学し、英語力の強化にも力を入れた。

20歳でフィリピン留学したバコロドの景色(写真提供=松崎 唯)

大学卒業後は、日本企業で法人営業として働いた。毎日都心のオフィスに通い、営業電話をかけ、全国の顧客にITソリューションを提案する日々。安定したキャリアではあったが、胸の奥に違和感が残り続けた。そして芽生えたのが、もともと考えていた「30代はヨーロッパで働いてみたい」という直感だった。根拠はない。それでも、心が確かにその方向を向いた。

28歳、原田さんは賭けに出る。オランダの引越し会社に応募し、採用を勝ち取った。英語は拙く、人脈もない。それでも迷いはなかった。「家族には迷惑をかけました」と笑うが、その決断は、初めて「自分の人生のハンドル」を自分で握った瞬間だった。

だが、原田さんを待っていたのは欧州の華やかな暮らしではなかった。曖昧なビザ、休暇なし──いわゆる“グレー”な労働環境だった。原田さんはここで海外の現実に直面する。しかし泣き寝入りはしなかった。現地の弁護士を雇い、会社に対して裁判を起こす準備をして最終的に裁判にならず示談に至った。この出来事は海外で生きるために必要な「自己防衛の力」を強烈に刻みつけた。

数々の苦難にも、日本に帰国する選択肢は浮かばなかったという。「現状の延長線に未来はないと感じていたんです。だからこそ、新しい環境に踏み出す機会があるなら必ず掴むまで挑戦し続けると決めていました」。日本で働き続けていれば出会わなかった困難、そしてそこで得た学び。これらを携えながら、原田さんはフォトグラファーとして生きる道を静かに歩き始めた。

オランダ移住当初の原田さんの撮影姿(写真提供=原田 篤)

原田さんがフリーランスとして起業した際に、借りたアムステルダムのオフィス(Nachtlab)(写真提供=原田 篤)

オランダ・ハーレムの風車「Molen de Adriaan(デ・アドリアーン風車)」(写真提供=原田 篤)

極貧からの再起。写真が与えてくれた「言葉を超える武器」

原田さんは、若いころからフォトグラファーとして本格的に歩んできたわけではない。写真との最初の接点は趣味としてのカメラだった。とはいえ、20代の頃に結婚式のエンドロール撮影を任された経験があり、人の人生の一瞬を記録することの面白さや、映像を仕事にできるかもしれないという小さな芽は、その頃すでに胸の内に生まれていたという。しかし、日本にいる間は営業職として日々を送り、写真が職業になるとは思っていなかった。

その流れが大きく変わったのは、オランダに渡ってからだ。フリーランスとして独立した当初は順調だったものの、仕事が途絶え、空港で夜を明かす日もあった。そんな極限状態の中で、原田さんをつなぎとめたのが写真だった。カメラは単なる趣味から、異国で生き抜くための言語へと変わっていったのである。

彼が飛び込んだのは、オランダ・ハーレムのハードコアテクノシーン。文化も言語も異なる屈強な男たちの中で、原田さんは好んで2年間撮り続け、撮影した写真をアーティストへ送り続けた。そしてついに、アーティストから50ユーロの謝礼を手渡される。「お前はもう家族だ」。その言葉は、越境者として初めて得た「居場所」だった。現在も、彼らとは深い親交を結んでいる。

オランダ・ハーレム ハードコア・テクノのチーム(HDC)との1枚(写真提供=原田 篤)

オランダの屋外フェスティバルでの1枚(写真提供=原田 篤)

また、日本のロックバンド「Guitar Wolf」とのツアー撮影にも同行。初めてオランダのハーレムで観たステージで火花を散らすその姿に、「凄すぎて痺れた」「世界を席巻しているって、本当にこういう人たちのことだ」と衝撃を受けた。

「『Guitar Wolf』のライブを観た後にオランダ・ハーレムの街を、胸をはって大股で歩いた記憶は今でも大事にしています。そこからひたすら『Guitar Wolf』のツアースケジュールを調べ、アメリカ、ヨーロッパ、日本をカメラ片手に追いかけました。今では一緒にツアー同行を許していただけるようになりました」(原田さん)

原田さんの中に再び「海外で挑む意欲」が強く燃え上がった瞬間だった。

2025年度のヨーロッパツアー「Guitar Wolf」のツアーファイナル(写真提供=原田 篤)

こうした経験の中で、原田さんは日本人が海外で陥りやすい「コミュニケーションの罠」を理解していく。原田さんが英語でのコミュニケーションで重視しているのが、「相槌を打たないこと」と「Pleaseを必ず添えること」である。

日本人は、聞き取れない英語の会話でもつい「うん、うん」と頷いてしまう。しかし原田さんは言う。「分からないのに『そうだよね』って言っちゃう。これは海外では真っ先に指摘される癖です」。理解していないのに同意したように見える行動は、海外では不誠実と受け取られかねない。

さらに、自分の要望を伝える際には「Please」をできるだけつけるように心がけているという。「英語ネイティブではないと、ぶっきらぼうな表現になってしまう人が多いので、Pleaseをつけるだけで『丁寧なやつだ』と思われるんです。相槌とPlease、この2つのポイントだけ覚えてもらうだけでも、コミュニケーションは大きく変わると思いますよ」。

原田さんはまた、海外で働くうえで「体力」の重要性を強調する。異文化で働くということは、想像以上に精神的・身体的な負荷が大きい。最終的にものを言うのは、環境に踏みとどまり続ける馬力なのだ。

もう一つ、慣れない海外での挑戦で、原田さんを大きく支えてくれたのが、オランダで出会った先輩方や、同じように移住してきた日本人の存在だった。オランダで示談金を手にし、「これからどう生きるか」を見失いかけていた時期に、現地で出会ったある日本人の方は、原田さんにシンプルでクリエイティブな生き方を、言葉ではなく実践で教えてくれたという。

「一緒にいるだけで自分自身がちょっとだけ特別な存在に思えたり、温かくていつも笑顔でいて人をワクワクさせてくれたりする、本当に魅力的な方です。厳しい局面に立ったとき、その人ならどう考えるだろうかと、今でも自分に問いかけています」(原田さん)

海外では中国系など強いネットワークを持つコミュニティが多いが、「自分はたくさんの日本人に助けられた」と原田さんは語る。孤立しがちな異国の地で、同じ日本人に手を差し伸べられた経験は、前に進むための支えとなり、再起のための心理的な土台を与えた。

原田さんが公私ともにお世話になったオランダ滞在時の藤原 康晴さん(右)(写真提供=原田 篤)

(財)日蘭シルバーネットのおぜんざいの会の一幕(写真提供=原田 篤)

原田さんが現地で切磋琢磨した日本人コミュニティ同世代の友人(Yuji,So Oishi)(写真提供=原田 篤)

 原田さんがシェアハウスで一緒になり語学や生活を含めて時間を共有した友人アンドレさん(左)(写真提供=原田 篤)

原田さんがドバイで写真使用の許諾を貰うために現地を訪問した際の一枚(Etihad museum)(写真提供=原田 篤)

オランダでの活動を経て、島根県松江市に移住した。個人事業主としてフォトグラファーとして生きようとしたが、自分の甘さと理想と現実のギャップがあったと原田さんは振り返る。「実際は、その日暮らしのアルバイト生活でした。ですが、その時過ごした時間は鮮明で、かけがいのない財産になっています。お世話になった接客業の上司に働き始めた当初『そのままの生き方では人生後悔するぞ』とお言葉を頂き、そこから挨拶、掃除、洗い物、洗濯など先ずは目の前のことを人並みにできるように意識しました」(原田さん)

日中は重い荷物を運び、トラックで山陰を巡り、夜は繁華街でウェイターとして働き生計を立てながら、ようやく人並みの生活ができるようになり、徐々に撮影の仕事も増えていったという。「島根県の現場で一緒に汗をかき、接客業でコロナ禍を乗り越え、共に音楽イベントを開催したメンバー、日陰の時期にお会いした方々、厳しくも温かい言葉をかけて頂き、お世話になった皆様には、感謝の気持ちで今でも溢れます」(原田さん)

その後、社会人向けの国立島根大学のプログラムに通い、「社会教育士の資格取得」「山陰ツーリズム育成塾」「起業家スクール」など勉学に励んだ。極貧からの再起、そして諦めきれなった写真を撮る意義、勉学、日常の生活によって開かれた人間関係。そのすべてが、原田さんにとっての「越境の実践知」となっていった。

原田さんが島根県松江市でフリーランスとして活動当初「テクノアークしまね南館」のシェアオフィスでの一枚(写真提供=原田 篤)

国立島根大学での社会教育士プログラムの講師・学友と写る原田さん(写真提供=原田 篤)

新天地ドバイが教えてくれた、越境者だけが掴める景色

原田さんが40代を前に新たな地として選んだのが、アラブ首長国連邦・ドバイだ。人口は約400万人、そのうち9割が外国人で占められ、190カ国以上の人々が共存する「小さな地球」のような都市である。宗教はイスラム教が基本にありながら、外国人を受け入れる政策が徹底されており、街には日常的に多様な文化が交差する。

人口構成ではインド系が約4割を占め、日本人は約4,000人と少数派だが、100社ほどの日系企業も進出し、アジア・欧州・中東を結ぶビジネスハブとして存在感を高めている。世界の80億人のうち、およそ60億人が4〜8時間圏内に位置する地理的優位性もあり、ビジネス・観光・物流が絶えず行き交う「動き続ける都市」として成長を続けている。

原田さんがこの街を選んだ背景には、「体力があるうちに暑い国へ行こう」という軽やかな直感と同時に、ヨーロッパ経済が停滞するなかで中東が示していた伸びしろへの確信があった。実際に訪れた際、そのスピード感、多国籍性、そしてイスラム文化への興味に強く惹かれ、迷いはほとんどなかったという。

現在のドバイは「石油の国」という古いイメージとは大きく異なる。観光、不動産、物流、金融に加え、メタバース、宇宙産業、ロボティクス、AIなどの先端分野へ投資が加速している。「スピード感、やる勢いがものすごい」と原田さんは言う。行政サービスにはAIが自然に組み込まれ、都市は高度に効率化されている。

ドバイ世界最大の人工島であるPalm jumeirah(パーム・ジュメイラ)(写真提供=原田 篤)

EXPO2020(ドバイ万博会場)の様子(写真提供=原田 篤)

 未来博物館(Museum of the Future)(写真提供=原田 篤)

Sheikh Zayed Grand Mosque(シェイク・ザイード・グランド・モスク)(写真提供=原田 篤)

こうした環境のなかで、日本人が果たせる役割は決して小さくない。むしろ「日本人としての特性が発揮しやすい国」だと原田さんは語る。現地では日本の文化が尊敬され、丁寧さや誠実さは強い信頼につながる。しかし挑戦する日本人はまだ少なく、広大なブルーオーシャンが残されているのが現実だ。

原田さんは現在、現地の会社に就職し、ツアーガイドとして観光客を案内しながら、フォトグラファーとしての活動領域を広げている。そして原田さんは、世界で戦う日本人が持つ最大の武器は「日本人らしさ」だと確信している。四季の感性、丁寧さ、配慮。こうした美徳は、均質化が進む世界において価値を放つ個性そのものだ。

島根県出雲市で撮影した紅葉(写真提供=原田 篤)

しまね伝統芸能祭での石見神楽(写真提供=原田 篤)

これから越境したいと考えている日本人へのアドバイスを聞くと、「今は観光で来日する外国人がたくさんいますよね。もし街で困っている外国人を見かけたら、まず『Hello』って声をかけてみる。まずそれが越境への第一歩です。日本にいたって越境できる機会はたくさんありますよ」と笑顔で教えてくれた。

今後、原田さんが見据えているのは、ドバイという急成長都市の只中で、自身のレンズ(目と耳、そして足)を通じて「変わりゆく世界を記録し続ける」こと、そして日本と中東をつなぐ新たな導線になることだ。「日本人的な感性を持ったまま海外で挑戦する人がもっと増えてほしい」。そう語る原田さんは、自身の挑戦を通じて、他の日本人が越境へ踏み出す「最初の一歩」を後押ししたいと願っている。「困っている外国人に『Hello』と声をかけることからすべては始まる」。その言葉には、国境を越えて生きるためのシンプルで普遍的なビジョンが宿っている。

ドバイでツアーガイドをする原田さんの様子(所属:3E Holidays LLC)(写真提供=原田 篤)

取材を終えて

取材前、原田さんは若いころから写真を生業としてきた方だと思い込んでいました。しかし実際に話を伺うと、そのキャリアの始まりには迷いや偶然が折り重なり、オランダやドバイでの挑戦を通じて少しずつ道が形づくられていったことを知ることができました。そのプロセスにこそ、越境して生きる人のリアリティが宿っていると感じました。

何も持たずに海外に飛び込み、困難を受け止め、それでも前に進み続けたからこそ生まれた数々のエピソードは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、JapanStepの読者の皆さんにもぜひ共有したい学びでした。

また、メタバースやAI、ロボットといったJMP(JapanStep Media Project)が扱う領域でも、ドバイは世界的な先進都市として存在感を高めています。まだ現地を訪れたことのない私にとって、原田さんの語るドバイの熱量はとても新鮮で、今後も折に触れて現地の動向を聞いていきたいと感じました。いつかJMPとして、読者の皆さんとドバイを実際に訪れ、その変化と可能性を体感する機会をつくれたら──そんな思いが自然と湧いてくる取材でした。(JapanStep編集部)