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2026.02.19

人生の転機を、世界で価値に変える【連載】越境スピリット~世界で輝く日本人

海外で挑戦を続ける日本人に直接話を聞き、そのキャリアや価値観を深掘りする本連載。今回登場するのは、出産という人生の大きな転機をきっかけにシンガポールへの移住を決断し、現地で多様なプロジェクトを手掛けてきたRie Tokuzawa Office代表・徳沢理絵さんだ。

「困難に直面したとき、その状況の中で誰かが我慢するしかないのではなく、関わる人すべてにとって、より良い“第三の道”がきっとどこかにある、と探してきました」。移住の決断も、教育への関わりも、現状の選択肢から選ぶのではなく、子供にとって、家族にとって、自分にとって、最も自然で幸せなあり方は何かを問い続けた結果だったという。母としての選択は、やがてイベントプロデュースやコミュニティづくりへと広がり、海外子女教育の制度を動かす力へと変わっていく。一人の母の違和感は、いかにして国境を越え、人を動かし、社会を動かしたのか。その歩みを追う。(文=JMPプロデューサー 長谷川 浩和)

Rie Tokuzawa Office 
代表  徳沢理絵さん

Webメディア企画広告営業・ディレクターを経て、2016年よりシンガポールに移住。「日本と海外の架け橋となる」イベントプロデューサー/MCとして、食・美容・心理学・Web3など幅広い分野で活動し、延べ5000名以上を集客。シンガポールで初となる外務省国際女性会議WAW!公式イベント「Singapore Women’s Empowerment Forum」を主催した。
また、「すべての子ども達が明るい未来を描ける社会」の実現のため、海外子女教育における特別支援教育拡充のため首相官邸を訪問し、世界初となる海外日本人中学校への特別支援学級設置に貢献。2025年よりドバイ不動産仲介会社Eminence Luxeに参画。ライフワークとしてオンライン講座・コミュニティも主宰している。

逆境のなかで身についた「考え、行動する力」

徳沢理絵さんは、4人兄妹の3番目に生まれた。徳沢さん自身、現在の今につながるのは母親から受けた影響も大きいという。「母は『自分で決めたらいいよ』と、いつも私の意思を尊重して好きにさせてくれました。そんな母のもとで育ったので『失敗したらどうしよう』よりも、『まずやってみて、困ったらそこから考えよう』という今のスタンスが生まれたんだと思っています」(徳沢さん)

大学時代は演劇やダンスに打ち込むが、疲労骨折をきっかけに断念。その後、社長秘書を経て、グルメガイドブックの企画制作会社に入社する。取材、撮影、ライティング、編集、企画営業まで幅広く経験した。

「ずっと食に関わる仕事をしていました。シェフの方の話や、食材の背景を聞くのが本当に好きだったんです。人と話すこと、新しいものに出会うこと。その両方がある仕事は性に合っていました。飲食店への飛び込み営業も全く苦ではなく、むしろ楽しかったですね」(徳沢さん)

20代でブランドマネージャーを任され、全国を飛び回る日々。出張先では、アポイントを詰め込みすぎてしまうこともあった。
「都会のど真ん中を、パンプスを脱いで裸足で走っていました(笑)。一人でも多くの方に会いたくて」(徳沢さん)

ガイドブックの企画営業を経験したのち、徳沢さんはWebメディアでのキャリアを10年ほど積む。「もともとやっていた広告営業だけでなく、この時期はイベントのディレクターやMCも務めていました。今思えばこの時の経験も、のちのシンガポールで生きてくることになります」(徳沢さん)

結婚、出産を経て、人生のフェーズが大きく変わる。特に次女の誕生は、価値観を根底から揺さぶる出来事だった。次女は生まれつき多発奇形・発達遅延の診断を受け、身体にも発達にもさまざまなトラブルを抱えていた。座る、立つ、歩く、言葉を発する――多くの人にとっては自然に身についていくことの一つひとつに、在宅ケア、医療や療育のサポートが必要だった。


子どもたちの存在が、徳沢さんの人生を大きく変えた(写真提供=徳沢理絵さん)

「次女の子育ては、正直大変でした。でもその分、自分の中にブレない軸をつくるきっかけを、たくさんもらったんです。『この歳でこれができないのはおかしい』『いつになったら喋れるの?』と、心配から声をかけてもらうことも多く、私自身も『ちゃんとした母親でいなければ』というプレッシャーから、『平均』と比較したり、『できないこと』に目を向けてしまいそうになったりすることもありました。

でも、そういう言葉を娘に聞かせるよりも『これができたね!』『これをしていると楽しいね!』という言葉をたくさん聴かせてあげたい。未来の心配や、人からどう思われるかを気にして、『今』を次女にとってただ辛い時間にしたくなかったんです」(徳沢さん)
徳沢さんは、次女本人の喜びと成長にフォーカスすると腹を括った。できないことではなく、心地よいこと、夢中になれることに目を向ける。少しずつでも成長していることを喜ぶ。

「今日を元気に生きているだけで幸せ。そう思えるようになりました。また、身体のトラブルを抱えながら成長していく次女と向き合う日々のなかで、生きていること自体が奇跡なのだ、と強く実感するようにもなりました。その感覚を忘れたくなくて、毎日20個、『当たり前だと思っているけれど、実はとても有り難いこと』をノートに書き出し続けた時期もありました」(徳沢さん)

もう一つ、大きな変化があった。素直に助けを求められるようになったことだ。
「限界まで一人で頑張ってしまうタイプだったんです。でも、人に頼ることで、世界がすごく広がりました」(徳沢さん)
子育てのなかで徳沢さんの考え方も大きく変わっていった(写真提供=徳沢理絵さん)

療育の先生から「お子さんに障害があっても、お母さんにも自分の人生を生きてほしい」という言葉をかけられたことが、心に残った。自分が我慢して一人で頑張るのではなく、環境を変え、周囲の力をかりることで、子どもを大切にすることと、自分の人生を大切にすることは両立できる。その気づきは、その後の生き方を考える上で大切な支えとなり、どこで暮らすことが家族にとって最善なのかを現実的に考え、家族全員でシンガポールに移住することになった。

温暖な気候と、文化も慣習も母国語も異なる多様な背景を持つ人々が共に暮らし、「違う」ことが前提として受け入れられている社会。実際に暮らしてみると、その環境は子供にも家族にもフィットし、結果的にとても合っていた場所だったという。
巨大な統合型リゾート施設「マリーナベイ・サンズ」近くで遊ぶ子どもたちの様子(写真提供=徳沢理絵さん)

越境の先で、日本の強さと課題を知る

シンガポールは、東南アジアのマレー半島南端に位置する都市国家である。国土は東京23区ほどの広さながら、金融・貿易・物流・観光のハブとして世界経済の要所を担い、多民族・多宗教社会を前提に成り立ってきた国だ。中華系、マレー系、インド系を中心に多様な文化が共存し、公用語は英語、中国語、マレー語、タミル語の4つ。違いを排除するのではなく、共存し、共に成長できるルールを設けることが、この国の前提になっている。
徳沢理絵さんが、この地が大好きだ、と感じた理由も、まさにそこにあった。


シンガポールの人口は2025年6月時点で約611万人。貿易・金融・製造を軸とした高所得の都市国家だ(写真提供=徳沢理絵さん)

「違いを尊重し、共創できる社会。それを実現するためのルールやスローガン、ロールモデルの提示など、現実的なアクションプランに落とし込んでいるところが凄いと思いました。暮らしを始めてもう一つ驚いたのは、シンガポールの人々の『日本へのまなざし』です。日本食、日本文化、日本のモノづくり。いずれも非常に高く評価されていました。一番好きな旅行先は日本、というシンガポール人は本当に多いです。日本人以上に、日本中を旅している方も珍しくありません」(徳沢さん)

シンガポールでの生活を通じて、徳沢さんは次第に、人と人をつなぐ活動へと関わっていく。食、美容、心理学、Web3など分野は多岐にわたったが、共通していたのは「日本と海外の間に、対話の場をつくる」という意識だった。

イベントプロデューサーとしての活動は広がり、延べ5000名以上を集客するまでになる。なかでも象徴的だったのが、外務省が推進する国際女性会議WAW!の公式イベントとして開催された「Singapore Women’s Empowerment Forum」だ。


Singapore Women’s Empowerment Forumの様子(写真提供=徳沢理絵さん)
 WEB3分野における国際教育支援チャリティーや、海外での特別支援教育拡充をテーマに、1万人以上を動員したアジア最大級のスタートアップカンファレンス『IVS CRYPTO 2023 KYOTO』にてゲスト登壇した(写真提供=徳沢理絵さん)

一方で、こうした対外的な活動と並行して、徳沢さんの関心の中心にあり続けたのが、子どもの教育環境、とりわけ特別な支援を必要とする子どもたちの学びの場だった。自身の次女の成長と向き合うなかで、海外で暮らす日本人家庭が直面する教育の現実を、より切実に捉えるようになっていった。

「海外に住む日本人にとって、日本人学校は大きな拠り所です。でも当時、特別な支援を必要とする子どもたちにとっては、選択肢が本当に限られていました」(徳沢さん)

シンガポールは教育水準が高く、インターナショナルスクールの選択肢も多い。一方で、様々な事情から日本語での学習環境や、日本のカリキュラムを前提とした教育を望む家庭にとって、日本人学校は依然として重要な存在だった。しかし、特別支援教育に関しては、制度として十分に整っているとは言えない状況があった。

「『前例がないから難しい』『人員の継続的な確保が難しい』という言葉を、何度も聞きました。でも、行き場を無くしている子どもがいるのは仕方ない、とは誰も思っていないんです」(徳沢さん)

徳沢さんは、同じ悩みを抱える保護者たちと対話を重ね、個別の事情を丁寧に聞き取っていった。感情論ではなく、現場で何が起きているのか、どこに制度的な壁があるのかを一つひとつ整理し、言葉にしていく作業だった。
「個々の家庭の『困りごと』として語るのではなく、海外で暮らす日本人全体の課題として提示する必要があると思いました」(徳沢さん)

その思いから、徳沢さんは行政や関係機関への働きかけを始める。首相官邸を訪問し、当時、内閣総理大臣補佐官(少子化対策・女性活躍担当)であった森まさこ議員に、海外子女教育の現状と課題を直接伝えた。
「森議員が、私の話を聞きながら涙を流して『必ず解決しましょう! 声をあげることが出来ない子ども達に代わって、臆することなく言葉にしてください。あなたなら出来ますよ! 』と仰って、翌月にはシンガポールまでお越しくださったんです。その姿を見て、この問題が確かに受け止められたと私自身もとても感動しました」(徳沢さん)

コロナ禍に、首相官邸に陳情に伺った際の森まさこ議員との一枚(写真提供=徳沢理絵さん)

また、森議員からはその後大きな支えとなる言葉をかけてもらったという。
「『どんな子どもも、学校で友だちと出会い、他者と共に生きることを学び、自分ができることを一つでも多く見つけて、人の役に立つ喜びを感じ、社会で自立していくための教育を受ける権利がある。そして発達の速度や特徴に違いがある子たちが、ともにいることが自然であり、多様性のなかで人間として成長できる』とお話くださいました。『障がいのある子どもが排除されず、ともに教育を受けることは全ての子ども達にとって大切である』ということを強く仰っていただいたことが、本当に心の支えとなりました」(徳沢さん)

その後、現地視察や関係者との協議が進み、世界で初めてとなる海外日本人中学校への特別支援学級設置が実現する。一人の母として感じた違和感が、制度として形になった瞬間だった。

「特別なことをした感覚はありません。ただ、すべての子どもたちが明るい未来を描ける社会を、次の世代に手渡したい、そのための“第三の道”が必ずあると思い、諦めずに行動し続けたこと。そして本当にたくさんの方の協力があって、実現しました」(徳沢さん)

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