2026.03.10

社会実装の壁と未来の突破口 メタバース×医療のリアル

メタバース元年と呼ばれた2022年から数年。医療現場では、単なる仮想空間を超えた実践的変革が静かに進行している。精神医療における心理的障壁の突破、希少疾患患者を繋ぐ共感の場、そして社会実装に向けた挑戦──。その最前線を照らしたのが、2025年7月4日に開催された「XR・メタバース総合展」での特別セッションだ。一般社団法人Metaverse Japan医療ワーキンググループに所属する専門家たちの対談を通じて、横浜市立大学、岡山大学の事例から、医療×メタバースがもたらす新たな価値創造の可能性を探る。(文=MetaStep編集部)

※本記事は『MetaStep Magazine』に掲載した記事を再掲載したものです。その他の記事は冊子でお読み頂けます。

公立大学法人 横浜市立大学
研究・産学連携推進センター 教授
宮﨑 智之氏

横浜市立大学医学群教授。神経科学、麻酔科学、薬理学を専門とし、AMPA受容体を生体脳内で定量するPET薬剤を開発し精神・神経疾患研究を牽引。JSTプロジェクトで若者の生きづらさ解消にも挑む。Metaverse Japan 医療WG座長として産官学連携を推進。

国立大学法人 岡山大学
学術研究院医歯薬学域
医療情報化診療支援技術開発講座 教授

長谷井 嬢氏

岡山大学教授で整形外科医。骨軟部腫瘍を専門とし、AIやメタバースを医療に応用する研究を推進。骨腫瘍の早期診断支援AIや、希少がん患者向けAIチャットボット、メタバースを活用したピアサポートの開発に尽力。医療DXを牽引し、患者中心の医療実現を目指している。

公立大学法人 横浜市立大学
研究・産学連携推進センター 特任助手/
株式会社ゆずプラス 代表取締役社長

水瀬 ゆず氏

メタバースに7,000時間以上没頭し、社会課題解決を目指して起業。VR不登校支援「ぶいきゃん」を立ち上げ、株式会社ゆずプラス、一般社団法人プレプラ代表を務める。立命館大学客員助教、横浜市立大学特任助手として教育分野にも従事。

精神医療に灯る「対話」の光

「従来の対面診療やZoom診療では、特に初診の患者さんとは、最初の60分でほとんど会話が進まないことが珍しくありません」── 横浜市立大学 教授 宮﨑智之氏は、精神科の診察現場で直面する課題をそう語る。患者が椅子に座りながら視線を逸らし、まるで柱の陰に隠れるようにして言葉を発しない。これが現実だという。

しかし、その状況を一変させたのがメタバースだ。患者が自ら選んだアバターで診察に臨むことで、心理的な防御壁が劇的に緩和される。「メタバース内では、患者さんがアバターを纏うことで自分の殻を破りやすくなります。これは従来の診療では考えられないほどの変化です」と宮﨑氏は強調する。

実際、宮﨑氏らが26名の患者を対象に行ったVR診療の調査ではメタバース相談について、76%が対面相談と同等、もしくはそれ以上であったと好意的に回答。特に対人不安や感覚過敏がある人では、対面診療よりメタバース上の方が「話しやすい」との声が多かったという。背景には、空間そのものの匿名性、そしてアバターによる自己表現の自由がある。

横浜市立大学 研究・産学連携推進センター 特任助手 水瀬ゆず氏も同様の変革を目の当たりにしている。一例に挙げた「Metaverse版 PEERS®」は、発達障害を持つ若者の対人コミュニケーション訓練にメタバースを活用するプログラムだ。ロールプレイ動画を用いてコミュニケーションの「良い例」と「避けるべき例」を示し、患者が自らの振る舞いを客観視できる。「アバターで演じることで、現実の自分に向き合いやすくなるのです」と水瀬氏は語る。

NHKの社会実験型ドキュメンタリー番組「プロジェクトエイリアン」でも、10代の患者がエイリアンのアバターとなり、他者と交流する試みが行われた。その結果、孤独感や抑うつ症状が著しく改善されたという。宮﨑氏は「薬や従来のカウンセリングでは到達しにくい改善を、メタバースが可能にしている」と熱を込める。


希少疾患患者を繋ぐ「共感」の空間

「私たちの分野では、患者さんは全国に点在し、同じ病気の仲間に会う機会すらほとんどないのが現実です」──そう語るのは岡山大学 長谷井嬢氏。専門は骨軟部腫瘍という希少がん。患者数が極めて少なく、専門医も限られる。診察のために片道4 時間かけて通院する患者もいるという。

そこで長谷井氏が着目したのが、メタバースを活用した患者同士のピアサポートだ。2023 年12月には、入院中の患者が病室からメタバース空間にアクセスし、全国の仲間と語り合う試みが始まった。「アバターなら、病気による外見の変化を隠せるし、年齢や性別の壁も超えられる。言葉が少なくても、動きや表情で思いを伝えられるんです」と長谷井氏は語る。

また、長谷井氏のプロジェクトでは、メタバース空間内に「ガチャガチャ」を設置するなど、遊び心を取り入れている。「診察室では出せない笑顔が、メタバース空間では自然に出るんです」と長谷井氏。病棟の七夕イベントでは、子ども達が書いた短冊を空間内に飾り、非日常の空間を患者自身が創り上げる試みも進めている。

こうした取り組みは、単なる情報交換にとどまらない。長谷井氏は「手術で社会復帰できても、患者さんは心に大きな傷を抱えています。メタバースでの交流が、その心の支えになる」と断言する。患者同士が悩みを共有し、励まし合うことで、孤立感を和らげ、QOL(生活の質) の向上へつなげることができるのだ。

希少疾患領域こそ、地理的制約が最大の壁となる分野だ。メタバースは、まさにこの壁を取り払う新たな架け橋となりつつある。

社会実装の鍵を握る「技術」と「意識」

希望に満ちた医療メタバースだが、社会実装への道のりは決して平坦ではない。最も大きな課題は「現場の認識の壁」だと宮﨑氏は言う。「医療現場では、メタバースをいまだに『ゲーム』と誤解する声が根強い。だからこそ、我々だけでなく、患者さん自身の声が非常に重要なのです」。

長谷井氏も同意する。「メタバースの可能性は、体験しないと理解できない部分が大きい。医療従事者こそ、まずは自ら体験すべきです」と強調する。

一方、技術面での課題もなお残っている。宮﨑氏は、診察に不可欠な「顔色」「視線」「微細な表情」などの非言語情報が、現状のメタバース空間では完全には再現できない点を指摘する。「精神科診療では、こうした情報が診断の重要な手がかりになります。それが一部欠落している現状では、リアルの診療とまったく同等とは言えません」と述べつつも、「ただ、視線トラッキングなどの技術は進歩しており、解決の兆しは見えています」とも語った。

さらに、VR酔いやデバイスの重量、ヘッドセットの価格など、ユーザー体験の問題も立ちはだかる。「将来的には、医療機器として保険適用され、レンタルが可能になるべきです」と宮﨑氏は言う。

加えて、匿名性と信頼性という医療ならではのジレンマも存在する。匿名性は患者の安心に寄与する一方、診療や保険請求には確実な本人確認が不可欠だ。「どう匿名性を守りつつ、個人認証を実現するか。ここが今後の大きな課題です」と宮﨑氏は語る。

共創こそ未来を創る力

課題は山積している。しかし、登壇者たちの言葉には希望が満ちていた。宮﨑氏は語る。「私たち学術機関だけでは限界があります。企業が研究開発に投資し、多様な知見を持ち寄る共創が不可欠です」。実際、Metaverse Japanの医療ワーキンググループには既に約27社が参画し、技術開発から社会実装までの道を模索している。宮﨑氏は「複数の企業がビジョンを共有し、共に進めば、日本発の医療メタバースは世界をリードできる」と展望を語る。

一方で、社会全体の意識変革が急務だ。長谷井氏は「メタバースを実際に体験した医療従事者が、周囲にその価値を伝える役割を果たさなければならない」と指摘する。水瀬氏も「若者だけでなく、年齢や立場を超えた包括的な支援システムとして広げたい」と意欲を見せる。

登壇者たちは口を揃える。「この可能性を広げるのは、医療従事者以外のステークホルダーの皆様が参画することです」。宮﨑氏は強調する。「もしこの領域に可能性を感じ、『自分も一緒に取り組みたい』と思われる方がいれば、ぜひ力を貸してほしい」。

医療メタバースは、単なるテクノロジーではない。患者一人ひとりのQOLを向上させ、社会全体のウェルビーイングを創出する、新たな産業の種だ。そこには巨大なビジネスチャンスも潜んでいる。未来を共に創るために。いまこそ産学官民の垣根を越えた「共創」の一歩が問われている。

医療分野のメタバース活用はまだ課題も多いが、体験患者の様子から確かな手ごたえを感じているという。今後は産学官民の共創が社会実装の鍵といえるだろう