2026.03.06

北新地の靴磨きから、福祉AIの起業家へ 【連載】華麗なる転身

人は、どこからでも人生を更新できる。その事実を、泥臭くも確かなかたちで示しているのがDeepwell株式会社 代表取締役の塚本大智さんだ。大学を休学し、100社にアポイントを取り社長に会いに行く。北新地の路上で靴を磨き、200万円を自力で捻出する。アパレルで壁にぶつかり「修行」に出たのち、2025年9月にDeepwellを創業。現在は福祉の現場にAIで切り込み、上場を視野に歩み始めている。「ワクワクしてウズウズして、やりたくて仕方ないぐらいのことが見つかるまで、いろんなことにチャレンジしてもがいてみたらいい」。その言葉がどのように形になってきたのか。転身の軌跡を追う。(文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)

お話を聞いたのは…

Deepwell株式会社 代表取締役
塚本大智さん

大阪を拠点に、2025年9月に医療・福祉領域に特化したAIソリューション企業を創業。業務を分解し「人が担うべき領域」と「AIで効率化できる領域」を切り分け、現場実装を重視する。身内の障がいと福祉現場の経験を背景に、非効率の解消を使命に掲げる。

進路より現場へ。100社の経営者との面談が変えた視界

塚本大智さんのキャリアは、「経営」という言葉が身近にある環境から始まった。2001年、大阪に生まれ、実家は不動産会社を営む家系で育った。幼い頃、祖父母の家に行くと、土地の売買や管理の話題が自然に交わされ、営業担当やデベロッパーが出入りしていた。正月早々、お酒を手土産に挨拶に来る大人たちを、祖父が当然のように迎え入れる。その光景が、塚本さんにとって「仕事とはこう動く」「経営者としての立ち振る舞い」を学ぶ最初の教科書になった。

 
(写真提供=塚本大智)

家庭内の規律も厳しかった。父は企業で要職を務め、母は秘書経験を持つ。言葉遣い、姿勢、礼儀作法。小さな頃から当たり前の基準として求められたという。

一方で、塚本さんは恵まれた環境にいながら、守られる側に収まらなかった。小学生からテニスを続け、学生時代はキャプテンも務め、常に先頭に立つことを好んだという。

「後ろで構えて待つより、自分もプレイヤーとして攻めたい」。その気質は現在の経営スタイルにもつながっている。 


(写真提供=塚本大智)

起業への意識が明確になったのは高校時代だ。父の周囲には上場企業を率いる経営者たちがおり、接する中で「雲の上の存在ではなく、努力を積み重ねてきた人間である」と実感したことが大きいという。

塚本さんは「私の起業は、逆境からの決意といったものではなく、楽しそう、面白そうというポジティブな感情がスタートだった」と振り返る。ここで芽生えた「ワクワク」が、その後の選択の軸になる。

2020年、コロナ禍のさなかに京都の大学へ進学するが、早い段階で違和感を抱いた。サークル活動に没頭し、およそ3か月。一通りやり尽くした末に残ったのは虚無感だったという。「これをあと3年半続けるのか」。東京で父を訪ね、仕事で成果を出している大人たちと接したことで、漫然と過ごす学生生活への疑問は確信に変わった。そこで塚本さんは大学を休学し、まず自分の手で事業を立ち上げる。

休学後に着手したのは、英語の受験対策をオンラインで提供するサービスの立ち上げだった。難関私大を目指す受験生向けに、SNSで集客し、LINEでコーチングを行う。手探りながら一定の収益は立った。しかし同時に、構造的な限界も見えた。サービスを受けるのは高校生だが、支払いの意思決定は保護者にある。「気が向いた時に親に伝えておきます」。その一言に、自分ではコントロールできない不確実性を感じたという。「これでは事業として大きくならない」。塚本さんは冷静に事業を畳み、次の打ち手を探す。

やりたいことが見えないなら、見えるところまで他者に会いに行く。塚本さんが取った行動は極めてシンプルで、同時に圧倒的だった。大阪の梅田や本町に拠点を置く企業を100社リストアップし、「話を聞かせてほしい」と片っ端からアポイントを取り始めた。会社の問い合わせフォームやInstagramのDMなどを使い、工夫しながら粘り強く連絡を重ねた。門前払いもあるが、結果として約6割の社長が面談に応じてくれたという。100社の面談は、いわゆる「業界研究」ではない。肩書きではなく、生身の経営者の時間をもらい、その場で問いを投げ、反応から学ぶ実践だ。

経営者たちが口を揃えた助言は「好きなことをやりなさい」だった。だが、当時の塚本さんに「好き」はまだ輪郭がない。だから会い続けた。意思決定の基準、勝負どころの感覚、失敗の扱い方。そうした言葉を浴びる中で、自分の興味がどこに強く反応するのかを確かめる作業でもあった。そして行き着いたのがアパレルである。ゴルフウェアのOEM事業を構想し、参入を決める。

この時期に鍛えられたのは、営業力だけではない。知らない世界に踏み込む胆力、仮説を立てる力、他者の時間をもらうための礼儀、そして「決める」力だ。やりたいことが見えない状態から、会い、聞き、試し、捨て、残す。その反復によって、塚本さんは自分の好奇心を“事業の種”へと変換していった。アパレルを選んだのも、流行ではなく、手触りとして「やり切れそうだ」と思えたからである。とはいえ、理念だけでは服は作れない。資金をどうつくるか。

塚本さんの次の一手は、夜の北新地という環境だった。

北新地の路上で学んだ商売の現実

「アパレルをやりたい」。方向性は定まったが、立ち上げに必要な元手がない。親に頼ることもできたかもしれないが、休学という選択を自分で引き受けた以上、資金づくりも自力でやり切る——塚本さんは腹を括った。目を付けたのが、大阪随一の歓楽街・北新地での靴磨きである。

発想は衝動ではなかった。アパレルのノウハウを学ぶため、塚本さんは東京の知人を頼って夜行バスで通い詰め、漫画喫茶で寝泊まりすることもあった。時間も体力も削れるなかで、やりたいアパレル事業をスタートさせるために「短期間で確実に資金をつくる」方法が必要だった。富裕層が集まり、現金が動き、しかも対面で価値提供ができる仕事。辿り着いたのが靴磨きだった。

きっかけは北新地の酒屋での配達アルバイトだった。店の前で交わされる会話、時間当たりの消費額、意思決定の速さ。そこで塚本さんは「この街で価値を提供できれば、資金づくりの速度が変わる」と仮説を立て、靴磨きに踏み切った。

そして路上へ。技術は動画で学び、試しながら磨いていく。料金は1回3,000円。安売りはしない。北新地で求められるのは「安さ」ではなく「納得感」だと見ていたからだ。塚本さんは自ら声をかけ、断られても次へ進む。温かく背中を押してくれる客もいれば、冷ややかな視線もある。隣を歩く女性に馬鹿にされる屈辱、泥酔客の相手をする惨めさ。きれいごとでは済まない現場を、塚本さんは受け止めた。

およそ2か月。毎日路上に座り、結果として約200万円を捻出したという。塚本さんは当時を振り返り「もうしたくないですね」と笑う。だがその言葉は、楽な経験ではなかったことの裏返しである。ある客から投げかけられた「いつか自分でここに飲みに来れるぐらいになれよ」という一言を、塚本さんはいまも鮮明に覚えているという。富裕層とゼロ距離で向き合い、数分の間だけでも対等に会話する。通常なら得られない学びが、靴を磨く手元に落ちてくる。北新地では、胆力と視座の両方が鍛えられた。

貯めた資金を元手に、塚本さんは念願のアパレル事業を始める。ゴルフウェアのOEM受託。個人事業から法人化し、4〜6人規模のチームへ拡大。売上も立ち、外形的には前進していた。しかし塚本さんは当時を「成功ではなく、むしろ失敗だった」と言い切る。役割分担が曖昧で、経営の基礎が固まっていない。何より、マーケティングの視点が決定的に欠けていた。「自分たちが作りたいものを作る」プロダクトアウトから抜け出せず、市場が何を求めているのかというPMF(プロダクト・マーケット・フィット)の基盤が弱かった。熱量だけでは、事業は伸びない。ここで塚本さんは、壁にぶつかった。

投資家から問われた。「このままこの業界でやっていく未来が見えるか」。その問いに、塚本さんは自信を持って頷けなかったという。何より、一緒に働く同世代の仲間のキャリアを考えたとき、曖昧なビジョンのまま組織を維持することは無責任だと感じた。「一度、外に出て修行をした方がいい」。助言を受け入れ、事業を整理し、会社の一部を譲渡。チームを解散し、塚本さんは再び“学び直す側”に戻る決断を下した。

修行を経て、福祉AIの事業という新たな挑戦へ

会員登録されていない方は、下記よりご登録ください。
登録後、ログイン頂くとお読みいただけます。