海外で挑戦を続ける日本人に直接話を聞き、キャリアや価値観を深掘りしながら、世界で活躍するための実践知を探る本連載。今回登場するのは、スリランカを拠点に観光・視察・研修事業と日本語メディア『Spice Up』を展開するSpice Up Travels (PVT) Ltd 代表の神谷政志さんだ。「もともと明確なビジョンや使命感があったわけではなく、いつか起業したいと思っていた程度でした」。そう語る神谷さんは、最初から越境や大きな志を掲げたわけではなかった。海外への道を切り開いたのは、腐っていた時期に手を挙げ、知らない世界に触れた経験だった。国境を越えるなかで神谷さんが気づいた、自分の価値と可能性に迫る。(文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)

Spice Up Travels (PVT) Ltd 代表
神谷政志さん
法政大学社会学部卒業後、新卒採用支援会社で採用事業部長などを歴任。国内長期インターンや学生向け海外研修事業の立ち上げを経て、2017年にスリランカで起業。現在はSpice Up Travels (PVT) Ltd を率い、観光・視察・研修事業と、スリランカ唯一の日本語情報メディア『Spice Up』を展開。発行人・編集長として、現地の魅力を日本に伝えている。
現在はスリランカで事業を営み、日本語メディア『Spice Up』をはじめ複数の事業を手がける神谷政志さんだが、その出発点に「海外志向の強い少年時代」があったわけではない。生まれは東京都世田谷区砧。父方は沖縄にルーツを持ち、母方は農家の家系。母方の実家のある土地で育った神谷さんの周囲には、どの学年にもいとこがいるような賑やかな大家族の空気があったという。

3歳の頃(写真提供=神谷政志さん)
「いとこが9人もいて、同じ学年のいとこもいました。男子は基本的にサッカーとピアノをやる、という空気がなんとなくあって、好きかどうかは別として、みんなやっていましたね(笑)」(神谷さん)
幼い頃に英会話学校に数年通っていたが、「全然できるようにならなかった」と語る神谷さん。大学4年のときにロサンゼルスに2カ月滞在した経験はあったものの、それでもなお、海外は人生の中心テーマにはならなかった。

地元のお祭りに参加したときの1枚(写真提供=神谷政志さん)
法政大学社会学部では、社会学やメディア、キャリア論に触れた。
「今振り返ると、その頃の学びが今の仕事の基礎につながっている気がしますね」(神谷さん)
新卒で入社したのは、人材系のネットベンチャーだった。もともと「人と話すのがとても苦手だった」という神谷さんだが、就職活動そのものは楽しかったという。いろいろな大人に会い、自分の進路を考える時間が面白かった。新卒市場に向けて企業や経営者を紹介する仕事にも魅力を感じた。また、将来的に起業したい気持ちがあったからこそ、創業社長が率いる会社で働きたいとも考えた。
「創業者がいる会社のほうが、会社の方針がわかりやすいし、起業するイメージも持ちやすいと思ったんです。だから、いずれ自分もやりたいなら、そういう会社に入ろうと思っていました」(神谷さん)
入社後の10年は、まさに仕事に没頭した時間だった。会社は六本木、自宅は麻布。帰宅は2日に1回。年末年始も休まず働き、「自分が創業した会社ではないかと思うくらい頑張っていましたね」と振り返る。仕事は好きだった。面白かった。だが、その一方で、焦りもあった。
「起業志向のあった友人たちが社会人3年目、5年目で次々と独立していくなかで、私には起業のアイデアがありませんでした。周囲をすごいと思う一方で、自分は何をやればよいのかが全然見えず、とにかくもどかしかったです」(神谷さん)
順調にキャリアを積み、事業部長も任されていたが、転機は意外なかたちで訪れる。2011年、29歳のとき、担当事業がうまくいかず、平社員に降格したのだ。後輩たちが自分の上司になる。かつて自分が誘った仲間が、自分を追い越していく。その現実は、神谷さんを深く落ち込ませた。
「正直、1年間ほどは完全に腐っていました(笑)。ふてくされて、定時で帰るかな、と思っていた時代でもありましたね」(神谷さん)
そのとき、会社の中で誰も手を挙げない案件があった。それは、学生をシンガポールに連れていく海外研修の仕事だった。当時の会社は海外に積極的ではなく、社内に強い関心を持つ人もいなかった。そのとき神谷さんは、半ば投げやりでもあり、半ば直感でもあるような気持ちで、「俺がやろうかな」と手を挙げた。
だが、この一手が、その後の人生を決定づける。2011年のシンガポールは、マリーナベイ・サンズの開業や円高も重なり、日本人にとって急に身近に感じられる都市になっていた。神谷さんにとっての衝撃は、観光的な華やかさ以上に、「知らない世界がこんなにあるのか」という事実そのものにあった。
「単純に、自分にはまだまだ知らないことがたくさんあるなと感じました。シンガポールってこんなにすごい国なんだ。政府がこんな国を作っているんだ、と強烈なインパクトがありましたね」(神谷さん)
さらに刺激を受けたのは、現地で活動する日本人起業家たちの存在だった。昔の取引先が会社を売却してシンガポールに移住していたり、学生時代に話を聞いた経営者が海外に拠点を移していたりする。そうした人々の話には、東京で働いているだけでは触れられない広がりがあった。
「海外で起業している人たちの話がとにかく面白かったんです。とにかくもっと知りたい。海外での研修を仕事にしていけば、自分も現場に行ける。そんな気持ちでその仕事に没頭していきました」(神谷さん)
当時、神谷さんの英語はまだほとんどできなかった。それでも「英語ができなくても、日本人であれば、世界中で活躍する日本人に会ってもらえる」気がしたという。日本語を話せること、日本人であること、それ自体が接点になる。神谷さんはひたすらメールを送り続け、人に会いに行った。ベトナム、ニューヨーク、上海、バンガロール…。会社員生活の後半4年間は、ほぼ海外案件に集中していたという。
ベトナム・ホーチミンでの研修に参加してくれたベトナム人学生たち(写真提供=神谷政志さん)
また海外では、日本にいた頃よりも人と話しやすい、と感じるようになったという。片言でも通じる。完璧でなくても許される。日本で感じていたコミュニケーションの息苦しさが、少しずつ薄れていった。
「正直日本では人と話すのは苦手だったんですが、少しずつ外国人だと何かいけるかも、と思えてきたんですよね。身振り手振りでも少し言葉を覚えれば対応してくれる。完璧じゃなくても許してもらえる。その感覚は、自分にはすごく合っていました」(神谷さん)

フィリピン・セブ島英語留学中に観光で訪れたボホール島(写真提供=神谷政志さん)
海外の仕事にのめり込む一方で、神谷さんには避けて通れない課題があった。英語という言葉の壁である。シンガポールをきっかけに各国を飛び回るようになったものの、英語が十分に使えるわけではなかった。2013年頃、インド・バンガロールに滞在した際、「さすがに英語ができないと厳しいかもしれない」と痛感したという。
インド・グルガオンの研修参加学生たちと訪れた「タージ・マハル」(写真提供=神谷政志さん)
一方で、インドで考えさせられたこともあった。バンガロールには、学生時代からつながりのあった柴田洋佐さんがいた。
「柴田さんとの付き合いは長く、最初の接点は、私が立ち上げた学生団体のメディアで取材したことでした。その後、中国・杭州での学生研修を依頼頂いたことを通じて距離が縮まり、インド・バンガロールの地では5か月も一緒に共同生活をしました。柴田さんも当時はそれほど英語ができなかったのですが、それでもインドでフリーペーパー事業を始められていたんです。越境は語学を完璧にしてから始めるものではない。そんなことを、横で見ながら実感しましたね」(神谷さん)
ただ、インドにいれば自然と英語が伸びるわけではなかった。結局、研修を手掛けていた会社を退職した後、有給消化期間を使ってフィリピンに2カ月ほど滞在し、「ギリギリ仕事ができるレベル」の英語を身につけ、いよいよ海外での独立を決意する。
ケニア・ナイロビの研修で訪れたキベラスラムの子供たち(写真提供=神谷政志さん)
ただ、独立を決めたあとも、すぐにスリランカに絞れたわけではなかった。東南アジアを中心に各地を回り、起業先を探した。フィリピンに行けばフィリピンが良く見える。マレーシアに行けばマレーシアが良く見える。どこへ行っても魅力があり、逆に決めきれない。根本には、「何をやるか」が固まっていない問題があった。
「会社員時代にも感じていたビジネスアイデアが思いつかない、という問題がここでも壁になりました。明確に何をしたいのかが決まっていないから、すべてが良く見えてしまう。だから決められなかった」(神谷さん)
フィリピン・バギオの英語学校の先生・生徒たちと毎日通った公園でのZUMBA(写真提供=神谷政志さん)
そんなとき、背中を押してくれたのが、シンガポール・ベトナム・インドでの研修を一緒に主催した豊田圭一さんと、バンガロールで一緒に過ごした柴田さんだった。豊田さんから「スリランカで柴田さんがインドで手掛けていたフリーペーパー事業をやってみてはどうか」と勧められた。
神谷さんにとってスリランカは、未知の国だった。海外研修の開催地、海外インターンの送り先の国は誰か知り合いがいる国だったが、スリランカはまったくの白紙の状態での挑戦だった。
「スリランカでフリーペーパー。当時の自分にとって選択肢はそれしかなかったんです。失敗したら終わり。でも、逆にそれで腹が決まった感じでしたね。豊田さんから、『大きな資本も完璧な準備もなくても会社設立はできる』と背中を押して頂き、現地に着いた翌日には、資本金を入れるための銀行口座を開設しました。その後の法人開設には、現地のカンパニーセクレタリーとの連携が不可欠だったのですが、なかなかうまくいかず、設立まで半年ほどかかってしまいました。一方で、売り上げの感触は早くつかめました。展示会には、会社登記前の段階から名刺だけを持って乗り込み、ブースを片っ端から回りました。契約してくれる企業を2社見つけることができ、これはいけると思いました」(神谷さん)
こうして、2017年1月に会社登記を終え、2月には日本語情報誌『Spice Up』の発行を開始する。だが、売り上げが立つことと、利益が出ることは別だった。市場規模は大きくない。単価も高くない。印刷や納品の工程を経るうちに、思ったほど儲からないことが見えてくる。それでも「1回目だから」「3回出せば変わるかもしれない」と粘りながら、お客さんを少しずつ増やしていった。

そして2018年、最大の危機が訪れる。知名度を上げようと先行投資を重ね、日本への発送などにも資金をかけた結果、会社と個人の預金がともにゼロになったのである。
「ついにキャッシュアウトが来た、と思いました。もう本当に終わりだなと」(神谷さん)
親に借金をして急場をしのぐ。ところが、そのわずか1週間後、取引先から「支払いを忘れていた」と未払い分が入ってきたのだ。神谷さんは間一髪で資金ショートを免れた。
この経験は、事業の形を見直す決定的な契機になった。当初、日本人デザイナーに依頼していた制作体制を、スリランカ人デザイナーへ切り替え、制作コストの削減も図った。現在は奥さまが制作の主力を担う体制も整い、日本語メディアを核に、視察・研修の手配などへと事業を広げていった。