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2026.08.14

人生を懸ける仕事は、少年時代の畏怖から始まった【連載】社長の原点

企業、行政、起業家、投資家など、宇宙ビジネスに関わる人々が国内外から集うSPACETIDE。日本・APAC地域を代表する宇宙ビジネスカンファレンスへと成長したこの組織を率いるのが、共同設立者 兼 代表理事 兼 CEOの石田 真康さんだ。

現在は日本の宇宙産業を牽引する一人として知られる石田さんだが、初めから宇宙を仕事にしようと考えていたわけではない。大学卒業後は外資系コンサルティングファームに入り、厳しい競争環境の中で実績を積み重ねていった。順調に見えたキャリアの途上で、自らの生き方を問い直す転機が訪れる。そのとき、石田さんが再び向き合ったのは、小学3年生の頃に強く惹かれた宇宙だった。(文=JMPプロデューサー長谷川浩和)

お話を聞いたのは

 

一般社団法人SPACETIDE 共同設立者 兼 代表理事 兼 CEO
石田 真康さん

2003年、東京大学工学部卒業後、A.T. カーニー(現Kearney)に入社。企業や政府機関への経営支援に携わった後、宇宙産業へと活動の領域を広げた。2015年にSPACETIDEを共同創設し、日本初の宇宙ビジネスカンファレンスを立ち上げた。現在は、産業や国境を越えて人や企業をつなぎ、宇宙産業の発展とエコシステムの形成に取り組む。日本政府の宇宙戦略基金のプログラムディレクターも務める。著書に『宇宙ビジネス入門 NewSpace革命の全貌』。

銀河系が、少年の世界を書き換えた

幼少期について尋ねると、石田さんは笑顔でこう答えた。

「生まれたのは地球です。地球の日本、千葉県市川市です」

石田さんと宇宙との最初の接点は、小学3年生の頃にさかのぼる。きっかけは、科学の授業でも天文学の図鑑でもなかった。当時夢中になっていた漫画『聖闘士星矢』だった。黄道十二宮を舞台にした物語から星座に興味を持ち、ゲーム『ファイナルファンタジー』に登場する武器の名前を調べるうち、ギリシャ神話や北欧神話へと関心が広がっていった。

星についてもっと知りたい。そう思った石田さんは、学校の図書館で宇宙の本を手に取った。ページを開いた少年の目に飛び込んできたのが、銀河系だった。

「銀河系の端の方に太陽系があり、その中に地球がある。地球の中に日本があり、その中に自分の住んでいる市川市がある。その構造を初めて認識したんです」(石田さん)

当時の石田さんにとって、実感のある世界は、市川市を中心とした関東近郊に限られていた。海外旅行の経験はなく、関東を離れる機会も多くはない。そこへ突然、これまで想像したこともなかった宇宙のスケールが現れた。本に記されていた世界のほとんどが、小学3年生だった石田さんの理解を超えていた。

「頭の中で何かが割れた音がしました。パリン、という感じです。それまでの自分の人生観が割れたのだと思います。自分には想像もできないスケールのものが、この世界に存在している。そのことに圧倒されましたし、理解できないからこそ、もっと知りたくなりました。同時に、自分がいかに小さな存在なのかも感じたんです。

あまりに興奮して、翌日、学級委員会でクラスのみんなに『銀河系の大きさを知っている?』と聞きました。周りからすれば、突然何の話をしているのかという感じだったと思います(笑)。宇宙への関心は、あの瞬間に生まれたのだと思います」(石田さん)

その後、小学校の天文クラブに入る。星や彗星について学び、夜には実際の空を観察した。先生が強い懐中電灯で星の位置を示すと、暗い夜空の中でも、どの星を指しているのかが分かった。

中学、高校へ進むにつれ、生活の中心はテニス部や受験勉強へ移っていった。宇宙について考える時間も、以前ほど多くはなくなった。すぐに進路や仕事へ結びついたわけではない。それでも、自分の理解をはるかに超える宇宙への関心と畏怖は、石田さんの中にあり続けた。

宇宙を選ばず、経営コンサルティングの世界へ

東京大学工学部で機械工学を学んだ石田さんだが、機械の設計や製造そのものには強く惹かれなかった。一方、大学生活ではイベントサークルの活動に熱中し、人が集まる場を仲間と企画することに面白さを感じていた。

「授業でエンジンをつくる機会があったのですが、あまり興味を持てませんでした。学科のほとんどの学生が大学院へ進む中で、自分は少し違うのではないかと思ったんです」(石田さん)

学部卒業後の就職を考え始めた石田さんの頭には、宇宙に関わる仕事も浮かんでいた。大学時代、当時の宇宙開発事業団、NASDAの講演を聞き、関連施設を訪れる機会があった。石田さんが宇宙に抱いていたのは、世界中の人々が国境を越えて協力する、開かれた世界への憧れだった。

実際に触れた宇宙開発は、石田さんが思い描いていた姿とは異なって見えた。宇宙開発は国家の政策や安全保障とも深く関わり、国際協力が進む一方で、国ごとの役割や情報の境界もある。純粋な憧れと、実際の産業や組織の姿との間に距離を感じたという。

「当時は、自分が想像していた宇宙の世界とは違うと思いました。そこで、宇宙業界へ進むことはいったん考えなくなりました。ちょうど進路も定まっていない頃で、文系の友人に誘われて経営コンサルティングファームの会社説明会へ行ったんです。そこで聞いたのが、『私たちは世の中を動かしている。ただ、何をしているかは言えない。挑戦したい人は受けてください』という趣旨の話でした。

仕事内容はほとんど分かりませんでした。でも、知恵でクライアントに価値を出し、社会を動かす仕事だと聞いて、とても挑戦的に感じたんです。世界中の優秀な人たちと仕事をしながら、自分がどこまで通用するのか試してみたいと思いました」(石田さん)

複数の経営コンサルティングファームを受け、石田さんはA.T. カーニーから内定を得た。最終段階では、英語で書かれたオファーレターを渡され、その場で入社の意思を問われたという。

「書かれている内容を、すべて理解できたわけではありません。それでも、面接で出会った人たちは知的で、それぞれに強い個性がありました。この人たちと一緒に働いてみたいと思ったんです」(石田さん)

先を見通したキャリア設計があったわけではない。2003年、石田さんは宇宙をいったん仕事の選択肢から外し、A.T. カーニーで戦略コンサルタントとしてのキャリアを歩み始めた。

厳しい評価から学んだ、プロの条件

入社後、2つ目のプロジェクトで、早くも厳しい評価を受けた。日本、ドイツ、アメリカの3カ国で進める案件で、業務はすべて英語だった。留学や海外居住の経験もなく、仕事で英語を使ったこともほとんどなかった石田さんにとって、入社早々の大きな試練となった。

「相手が話していることを十分に理解できず、自分の考えもうまく伝えられない。本当に何もできませんでした。英語で仕事をした経験がなく、チームが求めるだけの価値を出せなかったんです。

自分の力が足りなかったことは認めていました。ただ、評価について確認したい点もあり、当時の日本オフィスの社長に直接話をする機会をもらいました。どこに問題があったのか、事実と異なると考える点はどこかを、自分なりに整理して伝えました。最終的には評価を受け入れましたが、そのときは、正直会社に残れない可能性も覚悟していました」(石田さん)

その経験を経て、石田さんは次第に仕事で結果を残し、昇進を重ねていった。石田さんがA.T. カーニーに魅力を感じたのは、年次や肩書きではなく、プロフェッショナルとして生み出す価値が問われる文化だった。

「クライアントの前では、1年目も20年目も関係なく、発言の価値で見られました。若手だから意見を控えるのではなく、本質的に正しいことを言った人の意見が通る。社内では『Essential Rightness』という言葉が重視されていて、立場や力関係にとらわれず、クライアントにとって本当に必要な答えを考える姿勢が徹底されていました。

先輩からは、『学び方を学べ』『転んだ時ほど、すっと立ち上がれ』とも教えられました。同じ経験から一つしか学ばない人もいれば、十を学ぶ人もいる。問題が起きたときに、なぜ自分がこんな目に遭うのかと考え続けるのではなく、そこから何を学び、次にどう動くかを考える。早く動いた人ほど、早く立ち直れるということです」(石田さん)

石田さんは一日の終わりに、その日の気づきを「学びシート」に書き残した。うまくいった理由だけでなく、失敗の原因や、同じ状況にもう一度直面したらどう動くかまで、一つひとつ言葉にした。

苦手だった英語にも、同じ姿勢で向き合った。英語を避けられる案件へ移るのではなく、国際的なプロジェクトに入り続け、仕事の中で試行錯誤を重ねた。やがて、目標そのものも変わっていく。

「途中から、『英語力を上げたい』ではなく、『英語で良い仕事をしたい』と考えるようになりました。大切なのは、ネイティブのように流暢に話すことではありません。自分の職責を果たすために、会議で何を伝え、相手から何を引き出す必要があるのか。そのための準備を、日本語の会議以上に徹底しました。語学力そのものではなく、英語を使って成果を出すための戦術を磨くようになったんです」(石田さん)

厳しい環境から降りるのではなく、経験を振り返り、次の行動へ移す。A.T. カーニーで、石田さんはその習慣を身につけていった。

順調なキャリアの先で、「自分は何がしたいのか」

仕事は順調だった。クライアントの期待を上回る結果を出し、昇進を重ね、報酬も増えていく。外から見れば、申し分のないキャリアだった。

しかし、石田さんの中では、一つの問いが消えずにいた。

「クライアントの期待を超え、会社でも評価され、年収も上がる。そのサイクルは回っていました。でも、『俺は何がしたいんだろう』という問いだけは、ずっと消えなかったんです。

約2年間、自分を分析しました。どんな仕事に喜びを感じるのか、何を成し遂げたいのか、自分にとって大切なものは何なのか。考えたことを書き続け、その量は何百ページにもなりました。でも、ある日『これだ』と思っても、翌日には違う。いくら考えても、自分が何をしたいのか分かりませんでした」(石田さん)

29歳のとき、同僚との食事から帰る途中、突然、強い息苦しさに襲われた。救急搬送されたものの身体的な異常は見つからず、後にパニック発作と診断された。

仕事を約2カ月休み、復帰後も3年ほどは勤務時間を抑えながら働いた。この経験を境に、石田さんが仕事や人生を考える基準は大きく変わっていった。

「体調を崩したことで、このまま人生が終わる可能性もあるのだと、初めて現実として考えるようになりました。もし人生がこのまま終わるとしたら、後悔だけはしたくない。では、自分は何をしなければ後悔するのだろう、と考えたんです。

それまでの自分は、周囲から何を期待されているか、社会的にどのような意義があるか、自分の経験や能力をどう生かせるかといったことを基準に、仕事を考えていました。でも、そのときは、そうした条件ではなく、自分が本当に好きなことをやりたいと思ったんです。

そこで浮かんだのが、小学3年生の頃から好きだった宇宙でした。あれほど惹かれていたのに、自分はこれまで宇宙に関わることを何もしていない。そのことに気づいて、『何でもいいから宇宙を始めよう』と思いました」(石田さん)

こうして石田さんは、自らの役割を決める前に、まず宇宙に関わることを選んだ。

肩書きを外し、宇宙の現場へ

療養中に読んだ雑誌で、石田さんは日本チーム「HAKUTO(ハクト)」の記事を目にした。後のispaceへとつながるHAKUTOは、民間資金による世界初の無人月面探査レース「Google Lunar XPRIZE」に挑んでいた。

記事を読んだ石田さんは、「これだ」と感じた。HAKUTOの活動をインターネットで調べ、問い合わせフォームから連絡を送った。自らの経歴や経験を書き、活動に参加したいと申し出た。その後、当時HAKUTOの代表を務めていた袴田武史さんと会い、ボランティアとしてチームへ加わることになった。

当時の宇宙開発は、国や研究機関が主導する科学技術の領域だった。「宇宙を企業が担うビジネスとして捉える」という発想は、社会にまだ十分根づいておらず、石田さんが本業として携われるコンサルティング案件も、ほぼ存在しなかった。平日はA.T. カーニーで働き、週末はHAKUTOの活動を手伝う日々が始まる。

「最初は、コンサルタントとしてのスキルを生かす仕事ではありませんでした。スポンサー候補へ支援をお願いする手紙を書くような、地道な作業もありました。でも、自分の肩書きに合う仕事かどうかは気になりませんでした。宇宙に関われていること自体が、純粋に楽しかったんです」(石田さん)

活動を続ける中で、Google Lunar XPRIZEに参加する世界各国のチームが集まる会合へ出席する機会を得た。開催地はチリだった。さらにアメリカの宇宙関連カンファレンスにも足を運び、NASAやSpaceX、新興企業、投資家らが集う現場を目の当たりにした。

「世界には、こんなにも多くの宇宙ベンチャーがあるのかと驚きました。国籍も年齢も異なる人たちが、それぞれ本気で月を目指している。その熱量に圧倒されましたし、宇宙が国家だけのものではなく、民間企業が担う産業へと変わり始めていることを実感しました。一方で、日本ではその変化がまだ十分に伝わっていませんでした。だから、この熱を日本へ伝えたいと思ったんです」(石田さん)

石田さんはA.T. カーニーの広報担当者を通じて、『ITmedia』に記事企画を提案した。宇宙を技術開発の話題にとどめず、新たな産業の形成という視点から捉えた記事は、多くの読者を集め、「宇宙ビジネスの新潮流」と題した連載へ発展した。

発信を続けていた2015年、内閣府から宇宙政策委員会の委員就任を打診された。記事を通じて、石田さんの考え方が政策関係者の目に留まったのだ。

「宇宙業界の方々にとっては新しく見える変化も、自動車産業などを見てきた自分には、産業構造が変わる局面として理解できました。メーカーだけではなく、サプライヤーや金融、人材など、多くのプレーヤーが産業を支える。その構造は宇宙でも同じだと思ったんです」(石田さん)

週末のボランティアから始まった活動は、情報発信を経て、国の宇宙政策に関わるところまで広がった。

情熱を、産業の仕組みに変える

宇宙政策委員会では、日本の宇宙産業をどう発展させるか、さまざまな議論が交わされていた。ある会合で、一人の委員から、こんな言葉を掛けられた。

「『議論している時間があるなら、何かやらないのですか』と言われたんです。その場で、『そうだ、動こう』と決心しました。では何をやるかと考えたとき、日本には宇宙ビジネスについて業界全体で議論できる場がない。それなら、自分たちでカンファレンスをつくろうと思いました」(石田さん)

石田さんは、ispaceの袴田武史さん、アストロスケールの岡田光信さん、アクセルスペースの中村友哉さん、SPACETIDE 現CSO佐藤将史さんらと企画委員会を立ち上げた。当初は資金も運営組織もなかった。内閣府へ相談した結果、共同開催が決まり、2015年、第1回SPACETIDEが開幕した。初回には約400人が集まり、テレビをはじめとするメディアも会場を訪れた。

「『宇宙ビジネス』という言葉が、社会でも少しずつ使われ始めた時期だったのだと思います。そこへ世界の情報や人を集めたことで、世界で進む宇宙ビジネスの変化を、日本に伝える場をつくることができました。

ただ、宇宙ビジネスの存在を知ってもらうだけでは産業は育ちません。人材が足りないなら、新たな担い手が入ってくる仕組みをつくる。業界が分かりにくいなら、理解するための情報を届ける。産業の成長に必要な領域へ、活動を広げてきました」(石田さん)

初回に約400人だった参加者は、現在では約2,000人に増え、参加国も40カ国に広がった。活動の規模が拡大し、担う役割も増えるにつれ、ボランティア中心の運営には限界が見え始めた。石田さんは、SPACETIDEを継続的に運営できる事業へと転換していった。

「この10年で取り組んできたのは、自分の時間を100%宇宙に使える環境をつくることでした。好きなことでも、経済的に成り立たなければ続きません。これからの10年、20年、30年を宇宙に使うための土台を築いてきたんです。

産業を育てるには、政策、資本、企業、人材、国際関係など、さまざまな要素が必要です。宇宙は長く国が中心だったため、民間産業としての仕組みはまだ十分ではありません。その一つひとつを、多くの方と一緒につくっていくことが、自分の役割だと思っています」(石田さん)

SPACETIDEが掲げるビジョンは、「Unlocking Space for All Humanity」。

宇宙の可能性をすべての人に拓くこと。宇宙産業を担うのは、ロケットや衛星を開発する企業だけではない。技術が社会へ届き、新たな人材や企業が育つ環境を整えることも欠かせない。

小学3年生の頃に畏怖を抱いた宇宙を、産業として育て、社会へ拓いていく。それが、いまの石田さんの仕事である。

「宇宙に関わり始めたとき、報酬も名誉も期待していませんでした。社会的な意義も考えていなかった。ただ、好きだったから続けられたんです。でも続けていると、記事を書く機会が生まれ、政策の議論にも呼ばれるようになりました。最初から意義や報酬を求めすぎると、動き出せなくなると思います。5年、10年と続けていけば、それが仕事として形になり、一緒に取り組む人も増えていく。だから、最初の一歩は、もっと気楽に踏み出してよいと思うんです」(石田さん)

取材を終えて

アジア太平洋地域最大級の国際宇宙ビジネスカンファレンス「SPACETIDE」を率いる石田さんに、今回初めてお話を伺いました。取材で印象に残ったのは、石田さんが最初から明確な役割や大きな構想を持って、宇宙の世界へ入ったわけではないことです。

取材を通じて強く感じたのは、本質を考え、まず動き、続けることで、必要な仕事を自ら形にしてきた石田さんの姿勢です。まず現場に入り、必要なことを引き受け、続ける中で自らの仕事を形にしていく。さらに、好きなことを続けるためには、経済的に成り立つ基盤が欠かせないという現実も直視する。その両面に、石田さんの経営者としての強さを感じました。

90分のインタビューは、本当にあっという間で、まだ伺い切れないことが数多く残りました。SPACETIDEが歩んできた道のりや、これからの宇宙産業については、あらためて『SpaceStep』でも詳しくお話を伺いたいと思います。SPACETIDEがこれから、どのような出会いや挑戦を宇宙産業に生み出していくのか。SpaceStepとしても、その歩みを追い続けたいですし、引き続き共創させて頂ければと思っています。(文=JMPプロデューサー長谷川浩和)