2026.04.21

介護の現場から、気鋭のエンジニアへ 【連載】華麗なる転身

人は、積み上げてきたものを捨てることで人生を変えるのではない。苦労し、悩んだ経験を糧にし、別の場所でも生かし続けることで、大きく更新していける。そのことを静かに証明しているのが、GMOペパボ株式会社で事業開発部エンジニアリングリードを務める吉本康貴さんだ。理学療法士として介護施設の現場と経営を担ったのち、29歳で未経験からWebエンジニアへ転身した。吉本さんが描く理想は「亡くなる3秒前に『いい人生だった』と思えること」。その言葉の奥には、好奇心を手放さず、人に会い、自分の足で選び取ってきた人生観がある。「悩んでいる時こそ、勇気を出して人に会いに行ってほしい」。未経験の壁を越え、AI時代の最前線で活躍する吉本さんの転身の軌跡を追った。(文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)

お話を聞いたのは…

GMOペパボ株式会社 事業開発部エンジニアリングリード
吉本 康貴さん(写真右)

2012年から介護施設の運営に携わり、2015年に理学療法士になったことを機に統括責任者に就任。経営の立て直しを経て、2020年6月に29歳で未経験からWebエンジニアへ転職した。現在はGMOペパボ株式会社の事業開発部でエンジニアリングリードを務めている。

父の背中が教えた、進路は自分で切り拓くもの

熊本県球磨郡錦町。球磨川沿いの平坦地と九州山地につながる山並みに囲まれた、自然豊かな土地である。吉本康貴さんが育ったのは、広い空と緑に囲まれた、のびのびとした土地だった。両親と兄の4人家族。吉本さんの人格形成に最も大きな影響を与えたのは、父の存在である。当時、父は地元で土建業の副社長を務めており、吉本さんの目には、常に忙しくもエネルギッシュに働く、強くて大きな大人の男の姿として映っていた。

幼い頃の遊び場の一つは、父が勤める土建会社の資材置き場だった。危険な機材や資材が山のように積まれたその場所で、吉本さんは日が暮れるまで無邪気に走り回っていた。
「『大丈夫、死にゃせんから』という父の言葉が、今でも記憶に残っています。小さな擦り傷や泥汚れなど意に介さず、自由に遊ばせてくれました。読書家でもあった父は、さまざまな本の言葉を引きながら人生を説く人でした。よく『人生は、ご飯と塩さえあれば食っていけるんだから大丈夫』とも語っていましたね」(吉本さん)

吉本さんが中学生に上がる頃、父は大きな決断を下す。長年勤めてきた土建業の副社長という立場を離れ、全く畑の違う介護事業で起業したのだ。しかし、中学生の吉本さんの目に映った父の背中は、決して悲壮感漂うものではなかったという。
「すごく大変そうだけれど、生き生きしていました。何か大きなことを成し遂げようと懸命に頑張る姿は格好良く、強い熱量を感じました。一番尊敬する人は誰かと聞かれたら、迷わず『父』と答えますね」(吉本さん)

一方で、吉本さんの知的好奇心は、父の事業とは別の方向にも伸びていた。もう一つ大きな影響を与えたのが、「パソコン」との出会いだった。小学校高学年の頃、父が経営する会社で余っていた古いノートパソコンをもらったことがきっかけだった。最初はフロッピーディスクを入れて恐竜のソフトで遊んだり、ソリティアや囲碁ソフトに親しんだりする程度だったが、次第にデジタルの世界にのめり込んでいった。中学生になると、自分専用の新しいノートパソコンを買い与えられ、「マビノギ」というMMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG)に没頭した。
「ゲームの面白さだけでなく、インターネットの構造そのものへの興味も湧き上がりました。将来はゲームを作るような、プログラミングに関わる仕事に就きたいと思ったこともありました」(吉本さん)

しかし、そのITへの関心はいったん脇に置かれることになる。高校に進学し、将来の進路を決める時期を迎えると、吉本さんの中には「父の興した介護事業を自分が継ぐ」という思いが、自然と芽生えていたからだ。兄が医学の道に進んだこともあり、吉本さんは家業を支えるために社会福祉士を目指し、文系コースを選択した。ところがその後、社会福祉士よりも「理学療法士」の資格を取得する方が事業にとって有益であるという結論に至った。問題は、彼がすでに文系コースを選択しており、学校のカリキュラム上、理系への転向が不可能であるという事実だった。結果として、文系のクラスに在籍したまま、理学療法士を目指して大学受験に必要な化学や数学を独学で学び直す道を選んだ。


若いころの吉本さん(写真提供=吉本 康貴)

1年間の浪人生活を経て、吉本さんは鹿児島大学の理学療法学専攻に合格した。自らの力で未来を切り拓き、家業を継ぐための確かな一歩を踏み出したかに見えた。ところが、大学2年生の時、尊敬してやまない父に末期がんが見つかった。父の病と向き合うなかで、吉本さんは迷うことなく大学の休学を決意する。家族を支え、父が築いてきた介護事業を守るためだった。

吉本さんは休学中の1年間、現場の介護業務に奔走しながら、同時に経営のノウハウを必死に吸収していった。大学3年時に父は帰らぬ人となったが、吉本さんに悲しみに暮れる暇はなかった。1年間の休学期間を経て大学に復学し、無事に国家資格を取得して卒業を果たした吉本さんは、実家の介護施設に統括責任者として戻った。有料老人ホーム、デイサービス、そして居宅介護支援事業所という3つの施設を運営する責任者として、吉本さんの社会人生活は幕を開けた。

 
理学療法士として活躍していたころの吉本さん(写真提供=吉本 康貴)

介護現場で育ったエンジニアの芽

20代前半で介護施設の統括責任者として働き始めた吉本さんを待っていたのは、現場の最前線で働く、一回りも二回りも年上のベテランたちだった。吉本さんは「プレイングマネージャー」として、自らも現場に入り、介護や理学療法の業務に従事しながら、同時に経営の重責も担うこととなった。地域社会や利用者、そして長年会社を支えてきた従業員からは、常に「若き跡継ぎ」として見られていた。

理学療法士という職業、そして介護事業そのものが持つ社会的な意義は計り知れない。吉本さん自身も、目の前の利用者の笑顔や回復に立ち会えるその仕事に、深い誇りと強いやりがいを感じていた。経営と現場の両輪をこなす日々は、決して平坦なものではなかったが、その日々の中で、吉本さんは後に大きな財産となる考え方を身につけていく。それが、「コミュニケーションの本質」と「物事を深く理解するための第一原理思考」である。

「当時の現場スタッフの平均年齢は50代から60代。長年の経験に基づく独自のプライドと仕事の流儀を持つスタッフに、上から目線で指示を出しても、人は動かず、むしろ反発を生むだけです。その中で導き出した答えは、圧倒的なホスピタリティを持ち、誰に対しても真摯に、誠実にコミュニケーションを取ることでした。相手の立場や経験を尊重し、真摯に耳を傾け、心を込めて対話をする。この時に学んだコミュニケーションの姿勢は、今のエンジニアとしての仕事にも活かされています」(吉本さん)

また、経営に携わる中で複雑な介護保険制度と向き合ううちに、吉本さんの論理的思考力も研ぎ澄まされていった。
「介護保険の世界は、本当に制度が複雑なんです。インターネット上にある二次的な解説記事や、誰かが噛み砕いた情報をただ鵜呑みにするのではなく、常に『介護保険の原文』に立ち返るよう自らに課していました。『なぜこのような制度設計になっているのか』『この条文は、どのような行政の解釈に基づいて運用されているのか』。原文を徹底的に読み込み、ときには行政の担当窓口に直接電話をかけ、運用ルールの背景や担当者の解釈の余地までをも徹底的に理解するよう努めました」(吉本さん)

この「物事の根本原理(第一原理)にまで遡って理解し、それが実際の仕組みの中でどう機能しているのかを把握する」という思考プロセスは、まさにプログラミングにおけるシステム設計や、未知のバグを根本から解決するためのエンジニアリング思考そのものであった。

そんな日々の中で、後に吉本さんがエンジニアを目指す大きなきっかけが生まれた。それが、業務効率化のために使っていたExcelやFileMakerとの格闘だった。吉本さんは自身の性格を「極度の面倒くさがり」と語り、だからこそ「一度入力すれば、すべてのシートに自動で反映されるような仕組み」を強く求めるようになったという。
「関数やマクロを駆使し、複雑な計算やスタッフのシフト管理、利用者の情報管理を自動化するシステムを夜な夜な構築していくうちに、言葉にできないほどの楽しさを覚えました」(吉本さん)

データベースソフト「FileMaker」を本格的に使おうと思い立つと、高度なシステムを構築するため、熊本市内で開催される研修に車で1時間半かけて通い詰め、300ページにも及ぶ難解なデータベースの専門書を購入して独学で読み漁ったという。
「自分が論理立てて構築した仕組みが、思い通りにシステムとして機能する。その瞬間が本当に気持ち良かったんです」(吉本さん)

20代も後半に差し掛かった頃、吉本さんは人生の大きな岐路に立たされる。さまざまな事情が重なり実家の介護事業から完全に離れる決断を下すこととなった。吉本さんは、次なる人生のステージを模索し始めた。その時、改めて目が向いたのがIT業界だった。当時のIT業界は、ソフトウェアエンジニアの需要が急増し、リモートワークの普及や高い給与水準など、魅力的な職業として語られることが多かった。吉本さんは、IT業界を志すことを決める。背中を強く押したのは、幼少期から心の中にくすぶり続け、ExcelやFileMakerを通じて再び火がついた「システムを作りたい」「エンジニアリングの世界に飛び込みたい」という純粋な渇望であった。

吉本さんは、この胸に秘めた思いを妻に打ち明けた。未経験からの異業種への転職、しかも28歳後半という年齢は、IT業界を目指す上では決してハードルが低いとは言えない。しかし、彼の妻は「いいんじゃない。頑張ってみれば」と、あっけらかんとした、しかし非常に力強い言葉で彼の背中を押してくれた。こうして、未経験からWebエンジニアを目指す新たな挑戦が始まった。

AI時代を切り拓く「人に会いに行く」大切さ

エンジニアになるという目標を掲げた吉本さんは、すぐに動き始めた。熊本市と鹿児島市の双方に足を運べる立地を活かし、両市で開催されるIT関連の勉強会やエンジニア向けの交流イベントに、徹底的に足を運んだ。

吉本さんが重視したのは、単なる技術的な学習だけではない。現場で働くエンジニアたちからの「生きた情報」の収集である。脳裏によぎったのは、介護施設を経営していた時代、年配のスタッフや行政関係者との折衝を通じて、「人は二次会までは会社の看板を背負って建前で話すが、三次会以降になると本音が出てくる」という実感だった。

「勉強会後の懇親会にも積極的に残り、エンジニアの皆さんと話をしました。会社への思いや、リアルな労働環境、外からは見えないカルチャーの本質まで、たくさん教えていただきました」(吉本さん)

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