1. JapanStep TOP
  2. 世界を舞台に戦う研究者は、なぜ生まれたのか【連載】越境スピリット~世界で輝く日本人
  3. どん底から宇宙へ。父の言葉に導かれた起業家の原点 【連載】社長の原点

2026.05.13

どん底から宇宙へ。父の言葉に導かれた起業家の原点 【連載】社長の原点

社長という立場は、特別な才能を持つ限られた人だけのものではない。いま第一線で活躍する社長たちにも、迷いや不安、失敗を乗り越えながら、一歩を踏み出した原点がある。JapanStepで新たにスタートする連載「社長の原点」では、経営者の等身大の歩みの中に、誰もが抱く葛藤と、それを乗り越える「一歩」の正体を紐解いていく。初回に登場するのは、日本初の「宇宙商社®︎」を掲げ、宇宙の商業利用を切り拓いてきたSpace BD株式会社 代表取締役社長 永崎 将利さんだ。一見、エリート街道を歩んできたように見える永崎さん。しかしその歩みの裏側には、いくつもの挫折と、常に背中を押し続けた父の厳しくも温かい教えがあった。宇宙ビジネスの最前線に立つまで、永崎さんはいかに迷い、もがき、前へ進んできたのか。その軌跡と原点を追う。(文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)

お話を聞いたのは

 

Space BD株式会社 代表取締役社長
永崎 将利さん

1980年、福岡県北九州市生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、三井物産に入社し、人事、鉄鋼貿易、鉄鉱石資源開発などを担当。2013年に独立し、教育事業の立ち上げを経て、2017年に宇宙ビジネス領域でSpace BDを創業。衛星打上げサービスやISS利用サービスなどを通じて、宇宙の商業利用を切り拓きながら、「宇宙産業を、日本を代表する一大産業にする」という志のもと、国内外の企業・研究機関をつなぎ、宇宙産業の事業開発に取り組んでいる。

「二兎とも追え」父の言葉が授けた中学時代の二刀流

1980年、福岡県北九州市に生まれた永崎 将利さんの原点をたどると、自営業を営む両親、とりわけ父の強烈な存在に行き着く。自分たちのことは後回しにし、育ててくれたその背景には、父の壮絶な過去があった。

「祖父が商店街の会長のような役職を務めていたのですが、知人の連帯保証人を次々と引き受けたことから、多額の負債を背負うことになってしまったんです。親父は10歳までは家にお手伝いさんがいて『坊ちゃん』と呼ばれていたのに、11歳から卵配達や牛乳配達、新聞配達をして全く自分の好きなことができなくなりました。地元の名士の家だったがゆえに、その土地に居づらくなり、長崎や佐賀などを転々とし、最後は同じ苦しさなら生まれた土地に帰ろう、とリアカーを引っ張って帰ってきたそうです」(永崎さん)

苦労を重ね、学びたくても学べない環境を経験した父は、息子たちには「選択肢の広がる道を歩んでほしい」と強く願い、教育に情熱を注いだ。常に強調していたのが「チャレンジしろ」という言葉だった。

「とにかく立派な人になってほしい、活躍してほしい。そこには、親父自身の人生を投影していた部分もあったのだと思います。できない、難しいと言うとめちゃくちゃ怒られました。小学校低学年の時、テーマパークでショーを待つ大勢の観客を前に「一人で歌ってこい」とステージに送り出されたことがあります。私に度胸をつけさせたかったのですね。親父が怖いものだから、恥ずかしくて泣きながら『仮面ライダーV3』を歌いました」(永崎さん)

そんな厳しくも愛情のある教育は、中学時代に大きな転機をもたらす。地元の中学校に進学した永崎さんは軟式テニス部に入部。持ち前の運動神経と圧倒的な練習量で力を伸ばし、チームは地区大会優勝、全国大会を狙える存在へと成長していった。2年生の秋、キャプテンに就任する際に同級生からは「先生から生徒会長を頼まれても、絶対に断ってくれ」と頼まれていた。しかし、担任の先生から熱心に勧められる。校長からは「自分の教職生活の最後にやりたかったことを、全部一緒にやるんだ」との大きな期待もあったという。友人との約束を守ろうと固辞した永崎さんだったが、校長から直接電話を受けた父に呼び出された。そこで言われた言葉が、永崎さんの人生の大きな指針となる。

「親父は、こんなふうに語りかけてきたんです。『生徒会長がすごいとは思わない。全国に中学校はいっぱいあるから、生徒会長はたくさんいる。部活で全国大会に行く人も、野球やバスケ、文化部を含めたら結構いる。だから、どっちもすごいとは思わない。でも、どっちもやっている人はあまりいないはずだ。だから、それをやったらいい』と」(永崎さん)

さらに父は、「お前は『二兎を追う者は一兎をも得ず』という次元で生きていたのか。どっちも追え。そっちの方がかっこいいじゃないか。でも、その気がないならやらなくてもいいぞ」と言った。この言葉に「ぐうの音も出なかった」と振り返る永崎さんは、翌日、生徒会長に立候補。テニス部では「絶対に練習をおろそかにせず負けない」と仲間に誓い、キャプテンとして団体戦無敗を貫き、個人戦では全国大会出場を果たしながら、生徒会長との「二刀流」を見事に実現したのである。

「原点という今回のテーマで言えば、やっぱり親父の影響は大きいですね。『できない』という言葉をすごく嫌がり、いつも背中を押し続けてくれました」(永崎さん)

美意識で選んだ道と、商社で磨いた信頼の作法

進学校に進み、成績も優秀だった永崎さんは、大学受験で再び人生の岐路に立つ。父から「家計の心配はするな」と背中を押してもらうかたちで、確実な進路として慶應義塾大学法学部の指定校推薦を早々に獲得した。進学クラスのリーダー的な存在だった永崎さんに、同級生の友人がこう言った。「受験から逃げているんじゃないの。それだとしたら永崎らしくない」。

「自分の中でも逃げている実感があってモヤモヤしていました。担任の先生からも『あなたが指定校推薦に行ったらこの学級の受験に向けた士気はどうなるんだ』と言われ、俺、ちょっとダサいなと気づいて、指定校推薦を返上しました」(永崎さん)

ところが、東大を目指したものの、模試の判定はすべてE判定だった。浪人を覚悟していた時、父がふと買ってきてくれた月刊のテニス雑誌が転機になる。「テニスがやりたかったんじゃないのか。大学でもう一回、日本一のチームでテニスをやったらいいじゃないか」。その言葉に背中を押された。

「目的意識がないまま、ブランドや競争だけで進路を決めるとモヤモヤする。本当に自分が目的意識を持ち、自分の美意識に沿って意思決定をすると、こんなに爽やかでいられるのか。そのことを初めて実感した経験でした」(永崎さん)

結果として早稲田大学教育学部に合格。卒業後は、OB訪問で出会った先輩たちの姿に     憧れ、三井物産に入社した。知識も語学も段違いに優秀な同期に囲まれ、「自分は落ちこぼれだ」と感じていたという。最初の配属は希望とは異なる採用担当。同期が次々と海外ビジネスに関わる中、自分も早く世界を相手に挑戦したいと焦りを覚え、2005年、新卒採用で泥臭くタフな交渉が求められることから不人気だった部署を自ら志願する形で鉄鋼製品の貿易部門へ異動。当時は「商社不要論」が叫ばれており、貿易部門はその代表格と見なされていた。だが永崎さんは、その現場で商社の真価を見出していく。

「外から見れば付加価値がないと言われがちでしたが、売りと買いの間に介在してみると、工夫の余地はいくらでもあることに気づけたんです。当事者として考え抜き、腹を割って話すと、表には出てこない情報が見えてくる」(永崎さん)

この時期に出会った厳しい上司の教えは、現在の永崎さんのビジネス観の礎となっている。

「会食の時は絶対に下見に行け、自分が心からおすすめできない店は、絶対に使うなと言われました。中東出張の時は『現地の人たちの宗教や思想を勉強したか? 飛行機では     映画を見るんじゃなくて本を買って徹夜で読め』と指導されました。厳しい方でしたが、私にとっては最高の上司でした」(永崎さん)

その後、ブラジルに赴任。「駐在員同士でつるむのではなく、朝は一人ひとりとハグやキスをして挨拶し、徹底的に現地の言葉と文化を学びました」と振り返る。

「人は心が動かなければ、知識や理屈だけでは絶対に動かない。言葉や文化を学ぶことは、そこにいる人たちへのリスペクトの表れなんです」(永崎さん)

オーストラリア駐在では、資源メジャーのエリートたちと仕事をする中で、「安易に非を認めるな」という英語圏のビジネス慣習に触れながらも、「ありがとう」「ごめんなさい」を愚直に伝え続けた。その日本的な誠実さが、結果として長きにわたる強固な信頼関係につながっていく。

どん底で見つけた「大義」と、宇宙商社への挑戦

商社での日々は順調に見えたが、鉄鉱石部門へ移り、仕事の多くが社内調整になっていくにつれ、「自分で意思決定したい」という思いが強まる。そして2013年、明確な次の目標があったわけではない。それでも、1年半分の生活費だけを計算し、三井物産を飛び出した。

「退職を伝えた時、父親とは難しい対話がありました。『いつまで夢見る少年をやっているんだ』と言われたので『そういう男にしたのはお父さんだろう』と言ったら、『それは昔の話だ!』って(笑)独立の苦労を知っているからこそ、そして、総合商社で活躍する姿を心から喜んでいてくれたからこそ、ですね」(永崎さん)

無職となった永崎さんは、最初にインドの児童労働救済プロジェクトに飛び込む。しかし、結果としてはうまくいかず、撤退を余儀なくされた。生きるために会社を作ってお金を稼ぐための何でも屋のように働いたが、高額なコミュニティで痛い目を見るなど、どん底とも言える時間を味わった。

「自分が心から語れるものがないと、こんなに辛いのかと気づきました。仕事の先にどんな大義があるのか。それを語れないと、人は疲弊していくんです」(永崎さん)

その後、永崎さんは教育事業に目を向ける。中学生向けの起業家育成プロジェクトを請け負う中で出会った恩人からかけられた言葉が、再び永崎さんの人生を動かす。

「『これでは、あなたが語っている大義にはたどり着かないよ。日本から世界で活躍する経営者が出てくれば、次世代の子どもたちもみんな夢を持ってビジネスをやろうと思うだろう。インパクトを持てるようになりなさい』と言われました。さらに、『事業ドメインが決まったら応援する』と背中を押してくださったんです」(永崎さん)

やがて、投資家との対話の中で、宇宙ビジネスという選択肢に出会う。理系は苦手で、宇宙の専門知識もゼロに近かった。「どん底まで落ちたのなら、あとは特大のホームランを狙うだけだ」。そんな覚悟で、宇宙という未踏の領域に飛び込んだ。半年間、日米の業界関係者へのヒアリングを重ね、宇宙業界には、技術を事業へとつなぐ「ビジネスパーソン」が不足していることに気づく。

こうして2017年、宇宙領域のビジネスデベロップメントを担う会社として、「Space BD」を創業した。現在、宇宙産業では安全保障の観点から、各国が自国企業を優先する傾向が強まり、ローカルビジネス化が進んでいる。しかし永崎さんは、日本企業が持つ「ビジネスの誠実さ」こそ、世界で勝負する武器になると語る。

「期限を守る。言ったことを守る。修正するならその旨と背景をきちんと伝える。そうした当たり前の誠実さが、いまの世界では希少価値になっています。安定して誠実に仕事をする日本のサービスは、世界中のお客さんにとって、信頼できる選択肢になり得るんです」(永崎さん)

最後に、新たな挑戦を志す読者に向けて、永崎さんはこう力強く語った。

「言葉や思考は違いますが、感情に目を向けると、人間は一緒だと思える部分は多いと思います。英語が流暢でなかったとしても、相手にとって価値ある示唆を提供する力や、一緒にいて楽しいと思ってもらえる人間力は、言葉を超えて伝わる世界共通の価値です。もちろん、自身の意見を明確に伝える力は前提ですが、静かに、しかし誠実に相手を慮る姿勢は、むしろ日本が世界に貢献できる独自の価値観であり多様性ではないでしょうか。 米国人と英語で話すからといって、無理にアメリカナイズされた人格を作る必要はありません。論破するよりも、黙ってニコッとしていられること。その豊かさにも価値がある。色んな方から教わり、気づかせてもらった、人生の指針のようなものです」(永崎さん)

取材を終えて

実は永崎さんとは、15年ほど前に「日経ビジネス電子版」の取材を通じてお会いしたのが最初のご縁でした。時を経て、お互いの立場が変わり、宇宙商社を率いる永崎さんと再会できたことは、まさに運命的な巡り合わせでした。

取材を通じて感じたのは、永崎さんの揺るぎない自信の根底に、「父の教え」という、実に人間味あふれるバックボーンがあることです。エリート街道に見える歩みの中で味わった挫折も、独立後の苦労も、永崎さんはすべてを「強さ」に変えてきました。読者の皆さんの原点にも、身近な誰かの何気ない言葉があるかもしれません。実はそんな言葉の中に、未来を拓くヒントが隠されているのだと思います。

非常に内容の濃いインタビューとなり、実は予定していた質問項目をすべて聞くことができませんでした。永崎さん、延長戦はぜひ、食事でもしながら熱く語り合いましょう。