
世界を舞台に挑戦を続ける人たちは、どんな原点を持ち、どんな壁を越え、どんな未来を見据えているのか。本連載では、自ら道を切り拓く実践者たちの言葉から、読者の挑戦心を刺激するヒントを届けていく。今回は、世界6カ国で経験を重ね、エアラインパイロットとして国際的に活躍してきたSora Fun Entertainment代表の柴崎晴央さんにお話を伺った。語学の壁、就職氷河期、9.11後の航空業界の変化、そしてビザの問題。幾度も行く手を阻まれながら、柴崎さんは「一芸」を武器に、世界の空を飛ぶ夢を自ら切り拓いてきた。柴崎さんはいかにして逆境を跳ね返し、自らの居場所を世界に広げていったのか。その挑戦の裏側に迫った。(文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)
お話を聞いたのは

Sora Fun Entertainment 代表
柴崎晴央さん(写真左)
2000年にニュージーランド、オーストラリアで操縦訓練を開始。以降、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナムなど6カ国で経験を重ね、5社の航空会社でフォッカー50(Fokker 50)やエアバスA320の操縦に従事してきた現役エアラインパイロット。総飛行時間は約7000時間に及ぶ。国際的な運航経験を土台に、現在はパイロット養成支援や進路相談、フライトシミュレーター体験事業を通じて、航空業界を志す人材の挑戦を後押ししている。
柴崎さんの人生は、東京の下町・小岩から始まった。その後、神奈川県座間市、埼玉県へと移り住みながら少年時代を過ごした。両親と6歳下の弟がいる家庭で育ち、自然の多い環境を駆け回る、活発な幼少期を過ごしたという。父親の教育方針は、本人の自主性を尊重するものだった。
「責任はお前が取れ、と。基本的には何も言われませんでした。自分で考えて自分でやれというのが父の教えです。ただ一点だけ、その後パイロットになることだけは大反対されましたね。なれるわけないって真っ向から言われました」(柴崎さん)
幼い頃から公文式を習い、数学はずば抜けて得意だった。一方で国語は大嫌いだったため、迷わず理系の道に進み、大学では機械工学を専攻。CAD設計や力学などを学んでいた柴崎さんだが、当初は、パイロットになりたいという思いはまったくなかった。転機が訪れたのは、大学2年の夏休みのことだった。
「突然フラッシュバックというか、何かが上から降りてきたように『海外に行きたい』と思ったんです。昔見ていたテレビ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』が、頭の中によみがえってきて。たまたま趣味でスノーボードをやっていたので、南半球で冬のニュージーランドへ、スノボと語学留学を兼ねて行ったんです」(柴崎さん)

写真提供=柴崎晴央
これが柴崎さんにとって初めての海外渡航となった。ニュージーランドの開放的な空気と、現地の人々やホストファミリーの温かさに触れ、大きな衝撃を受けた。さらに、現地で初めて英語を口にした際、思いのほか相手に通じたことも大きかった。英語で意思が伝わる喜びを、そこで初めて実感したという。この経験から、「英語圏で働きたい」という漠然とした夢が芽生え始めた。
しかし、現実は甘くなかった。折しも就職氷河期の真っ只中。なかなか内定が出ない中で、唯一就職が決まったのが国内の大手建材メーカーだった。機械学科のバックグラウンドを活かして海外での買い付け部署を希望したものの、配属されたのは岩手県にある工場だった。
「もうショックでしたね。英語を使うどころか、現場で飛び交っていたのは濃い東北訛りでした。上司に希望の部署へ行くのに何年かかるか聞いたら『10年ぐらいかかる』と。だったらそんな時間はないと、わずか8ヶ月で退職しました」(柴崎さん)
退職後、英語を本格的に身につけようと決意した柴崎さんは、ワーキングホリデー制度を利用して再びニュージーランドへ渡った。

写真提供=柴崎晴央
以前お世話になったホストファミリー宅を拠点に、現地のリンゴ園などで働きながら、あえて日本人のコミュニティから距離を置き、英語漬けの日々を送った。

写真提供=柴崎晴央
そんな中、現地で日本人が経営する弁当屋が大成功しているのを目の当たりにする。酢飯にサーモンを乗せ、鰹節と醤油をかけた「サーモン丼」が飛ぶように売れていたのだ。
「これはいいと思って、自分の住む街でもやってみようと考えました。のれん分けさせてくれと頼んで、弁当屋を始める準備をしていたんです」(柴崎さん)
ビジネスの立ち上げを模索していた矢先、思いがけない出会いが訪れた。シェアハウスの同居人が「こんなチラシがある」と持ってきたのだ。それは、現地で生徒を募集していた日本人航空教官のチラシだった。そこには「パイロットになりませんか」という言葉が書かれていた。
「面白そうだなと、とりあえず同居人と一緒に話を聞きに行ったのが始まりです。当時、英語が話せるからといって、それだけで仕事に結びつくわけではないと思い知らされていました。外国人が海外で働くためには、やはり「一芸」が必要なんです。英語ができたからといって、『話せるんだね』ぐらいの感じでしかない。そんな折、たまたまパイロットという選択肢が現れたんです」(柴崎さん)
理系出身で物理などの知識があったため、専門用語を英語に変換する作業さえ慣れてしまえばクリアできると考えた柴崎さんは、パイロット訓練コースへ進むことを決意する。
「訓練コースの期間は約1年。最初の2〜3ヶ月で自家用免許の学科と実技を終え、残りの9ヶ月で事業用免許の課程に入ります。さらに計器飛行の資格も取って、そこまでがワンパッケージでした」(柴崎さん)

写真提供=柴崎晴央
学科試験は優秀な成績で順調に突破したものの、実技訓練では苦労の連続だった。ミスが直接命に関わり、すべて自分の責任に直結するというプレッシャーの中、彼を支えたのは多国籍な仲間たちの存在だった。
「一人では無理でした。私は海外のいろんな国の人たちとコミュニケーションをとるのが好きだったので、横のつながりがたくさんあったんです。みんなで支え合いながら、得意分野が違う仲間たちに聞いて、どうしたらいいかを考えながら、常に外に解決策を見つけていきました。一つのゴールに向かう過程として、みんなで一芸を身につけるぞという気持ちで乗り切りました」(柴崎さん)

写真提供=柴崎晴央
ニュージーランドでの1年間の訓練を終えた柴崎さんは、さらなる高みを目指す。オーストラリアのサンシャインコーストにある学校へ赴き、定期運送用操縦士(ATPL)という最高位のライセンスに必要な7教科の座学を、ビザの期限が迫る中、わずか3ヶ月で完了させた。これで、いよいよプロのパイロットとして就職活動に乗り出せる。そう思っていた。しかし、現実は再び柴崎さんの前に立ちはだかる。
ニュージーランドに戻り、小さな観光フライト会社などに応募するも、結果はすべて不採用だった。万策尽きて日本へ帰国した直後、世界を震撼させる事件が起きた。2001年9月11日の米同時多発テロである。
「航空関係のシステムがガラッと変わってしまいました。コクピットにも気軽に入れなくなり、何より外国人の就労ビザの取得が極めて困難になったんです。友人のツテでボツワナへ行き、セスナで物資を運ぶ『ブッシュフライト』の仕事に就こうと考えていた矢先の出来事で、本当に、これで万策尽きたという感じでした」(柴崎さん)
それでも諦めきれなかった柴崎さんは、フライトインストラクター、つまり教官の職を求めて、アメリカ・テキサス州ダラス郊外へ渡った。しかし、そこでの生活は過酷を極めた。
「食べ物はジャンクフードばかりで、娯楽もほとんどない。車がなければどこにも行けない。ストレスでうつ病に近い状態まで精神的に追い込まれ、結局アメリカからは撤退して、完全帰国しました」(柴崎さん)
夢への道は閉ざされ、手元には資金もなかった。柴崎さんは次のチャンスを掴むための準備期間と割り切り、東京の居酒屋で寝る間も惜しんで働き、次の挑戦に向けてひたすら資金を蓄える日々を送った。約2年の空白期間を経た頃、ニュージーランド時代の友人から一本の国際電話が入る。「マレーシアで日本人向けにエアラインの訓練プログラムが動いている」というのだ。
「すぐに現地のブローカーに国際電話をかけて説明を聞きました。当時はエアアジアなどが立ち上がり、LCC(格安航空会社)というビジネスモデルが急拡大していた時期。お金を払ってエアラインの育成プログラムに参加し、実質的には、訓練機会を自ら取りに行き、そこから仕事につなげていくような仕組みがあったんです。費用は約600万円かかりましたが、親に借金をしてでも、『ここしかない、今しかない』と資金をかき集め、飛び込みました」(柴崎さん)
2005年頃、ようやくエアラインパイロットとしての道を歩み始めた柴崎さんだったが、最初に配属されたのは希望していた最新鋭のジェット機(エアバスA320)ではなかった。現地のパイロットたちから「外国人に新しい機体を操縦させるな」という反発があり、ボルネオ島のコタキナバルを拠点とする、50人乗りのプロペラ機フォッカー50(Fokker 50)の運航に回ることになった。
「やりたくないとも言えず、受け入れて従うしかありませんでした。でも、実際にやってみるとすごく楽しかったんです。目指していたものになれたわけですから。このまま一生、マレーシアで骨を埋めるのかなと思っていました」(柴崎さん)
しかし、約4年が経過した2010年頃、またしても不測の事態が起きる。マレーシア国内でパイロット人材が充足し始めたため、外国人向けの就労ビザが発給されなくなり、事実上、職を失うことになった。
それでも柴崎さんの歩みは止まらない。すぐさまカナダへ渡り、自費でエアバスA320の資格を取得した。それをオーストラリアの免許に書き換えた。折しもシンガポールでジェットスターが立ち上がり、LCC拡大の余波で、大型機の経験がなくても資格さえあれば採用されるチャンスがあったのだ。見事合格を果たした柴崎さんは、ついにシンガポールで念願のA320のパイロットとしてデビューを飾ったのである。

写真提供=柴崎晴央
以降、カンボジアやベトナムなど様々な国を渡り歩き、総飛行時間は約7,000時間に及ぶ。パイロットとしての充実感は、言葉に尽くせないという。
「人にはできない経験がいっぱいできました。いろんな国に住めて、世界中に友達ができる。気象条件が悪い時に、自分の判断でバッチリとランディングを決めた時の達成感は最高です。待遇面でも恵まれていましたし、これまでの苦労を差し引いても、あり余るぐらい楽しいことがいっぱいありました」(柴崎さん)
長年、海外の空を飛び続けてきた柴崎さんの目には、日本の若者たちのキャリア観や選択肢の狭さが課題として映っているという。